ZS 「思い立つ」のは他力から

歎異抄に「立つ」という言葉が2回でる。
? 「さればそくばくの業をもちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願
   のかたじけなさよ」
? 「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏もうさ
   んとおもひたつこころのおころとき、摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」

 ある講者は、「思いたつ」というのは、「独立者」になることだという趣旨の言を記してい
るが、そうであろうか。凡夫が独りで「立てる」ものか。弥陀の誓願あればこそ、「この
業の身をたすけんという立ち上がってくださった本願」あればこそ、念仏もうさんという
こころが「立た」しめられたのではないか。
 この「おぼしめし立つ」は如来本願の発動。その発動あればこそ、私の「思いたち」の
受動に至ったのである。

 この本願信受があったとて、凡夫がこの世で仏・絶対者の心・さとりに「成る」のではない。
如来の摂取の光の中に包まれて、浄土・涅槃への道をあやまたず歩ましめられるばかりである。
 ともすると、この娑婆を浄土に変えることが念仏者の使命のように、思い上がっている一派が
ある。「法蔵精神こそこの世を救う」「その精神で我々は独立者にならねばならぬ」等と、一見
かっこよい理想論を振り回す人がいる。それはもう他力ではなく、自力だ。「念仏より他に往生
の道をも存知し」ている「ゆゆしき学生たち」であろう。
 「衆生は法蔵精神に救われて行く者」「衆生が法蔵菩薩になろう」とは、思い上がりも甚だしい。
煩悩具足の凡夫(「そくばくの業をもちける身」)が独立して正道を歩めるか?二種深信をどういた
だいているのか?「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」だから
こそ「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」ではないのか。
 深慮されたいと願うばかりである。

(出典 聞法ノート 平成20年9月28日記)
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        独立者