ZS 「化生(けしよう)」を「昇華」の譬えで
 
 親鸞聖人の和讃に
〝如来浄華の聖衆は 
   正覚のはなより化生して〟
とある。この出拠は天親菩薩の浄土論に「如来浄華衆 正覚華化生」である。また歎異抄五条などに出てくる「六道四生」の「四生」の説明には、胎生、卵生、湿生、化生を挙げる。
 こうして「化生」という言葉にはよく(60回ほども)『聖典』で出会うが、実際どう受け取ったらよいのであろうか。法話でどう説明したらよいのであろうか。

 『浄土真宗聖典 註釈版 第二版』の巻末註にはこう出ている。
 けしょう 〔化生〕 1 衆生が生まれる四種の形態のうち、何のよりどころもなく業力によって忽然として生まれること。迷界の四生の一。
            2 真実信心の行者が報土に生まれること。本願の不思議により、疑城胎宮にとどまることなく自然に生滅
              を超える無生の生を受けることをいう。この化生に対して、仏智を疑惑する者の往生(方便化土往生)を
              胎生という。
 1が仏教一般でいう意味であり、2が無量寿経下巻の仏智疑惑段に基づく浄土真宗での意味である。特に「自然に生滅を超える無生の生を受ける」というところは、『浄土論』『論註』に依拠している。 
 辞書的にはこの説明で十分なのであろうが、さて、法話などで、現代の一般の人に分かるように伝えるにはどうしたらよいか?

 一例として、ある大宗派の仏教雑誌1月号に、歎異抄第五条に関連して「化生」をこう説明している。
 〝凡夫が仏になるということは、ある意味、「化  けて生まれる」ほど不思議なことなのです。怪談話では、よく「化けて出るぞ!」などと言いますが、私のような悪凡夫が往生させていただく、ご法義の話も、「化けて生まれる」話を聞くのです。〟

 いかがであろう。「化ける」という卑俗な説明で満足される方には、それでよいであろうが、「無生の生」の境界に入るのを「化けて生まれる」ことだと親鸞聖人が聞かれたらどう思われるであろうか。余りにも多くの読者の程度を見くびった言い方ではないであろうか。

 そもそも「無生の生」とは仏のみがわかるさとりの境界に入ることである。「無生」は生滅のない境界だから実体はない。その無形的境界に入ることを「(無生の)生」というが、その「生」はもはや実体的、有形的「生まれ」のことではない。(「化けて生まれる」というときは、まだ「お化け」という実体、形を想定している。)
 色・形を離れた(無生の)「生れ」など想像もできない凡夫の次元では、何とも考えようがない。何かよい譬えがないものかと思いめぐらせていたときフト思いついたことがある。

 筆者が幼少のころ、母がタンスに衣類をしまうとき、よく「ナフタリン」を使っていた。「それ何?」と聞くと「虫除けの薬だよ。しばらく入れておくと、見えない煙が出てタンスの中一杯になり、虫がよりつかないのだよ」とのこと。
 又の時タンスの中を見たら、もうナフタリンは無くなっていて、孔のあいた小さいセロハンの袋が残っているだけだった。
 やがて中学校の理科の時間に、それはナフタリンが「昇華」した(固体が液体にならず直接気体になった)というのだと習った。さらに高校・大学では「激しい欲求が、芸術活動に昇華する」などのように、物事がさらに高次の状態へ一段と高められることをいうときに「昇華」という言葉が使われることを知った。
 そうだ、「化生」とはこの「昇華」のようなことだと思い当たった。凡夫の境界では形(固形)にこだわる。仏の境界は色もなく形もましまさぬ。その凡夫の「固形」が仏の本願念仏によって、仏の境界・無生(色・形がないから、いわば「気体」に擬えられよう)に「昇華」するようなものだ、それを聖典では「化生」と説かれているのだ、と言えば、何か少し分かるような気がする。
 基本的には「化生」を「化けて生まれる」と訓むからおかしくなる。「変化して生まれる」、「すっかり変化した生まれ方をする」ことだと受け止めたい。「在り方そのものがすっかり変化して生まれる」「想像もつかない境界・在り方に変わってしまうこと」と解釈したい。そしてナフタリンのような「昇華」の譬えをしたら、科学知識が弘まっている現代人にも、少しは正しく分かってもらえるのではないか。「化けて生まれる」では、高邁な浄土教がオカルト的低次元の宗教と誤解されてしまうと危惧する次第である。
       
(出典 藤枝宏壽「聞法ノート」
    2017/12/30)
【キーワード】 化生 四生 報土往生 胎生
     化土往生 化け物 ナフタリン 
     昇華 

【参考】
SAT(大正蔵経)で検索すると
1)「化生」・・・3569回
2)「化生・蓮華」(蓮華化生)・・・1574回
3)「往生」・・・13712回
出てくる。
 『不空羂索神変真言経』には
  「寿終已往生浄土。蓮華化生脱衆苦故。」
 『浄土真要鈔』には
  「大経ノナカニ胎生・化生ノ二種ノ往生ヲトクトキ、アキラカニ仏智ヲ信ズル者ハ化生シ」
とあるように、報土・化土をふくめて浄土に往くのが「往生」である。仏智不思議を信じた者は真実報土に「蓮華化生」し弥陀同体のさとりを得、還相の利他行にまで出ていくことができるが、仏智を疑惑した(己の善根に執らわれた)者は、化土に「胎生」し(樂の宮殿に閉ざされ)て、真の仏法僧に遇えない(自在な仏法味を味わえない)のである。
 「往生」は広義であり、「化生」は狭義・真実義(難思議往生)である。

 今、布教の面からみると、一般大衆に「化生」まで一気に説くことは至難。せめて「胎生」の往生(真門)の道を勧めればよいのではないか。親鸞聖人も「それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし」と勧めておられるではないか、という意見もあろう。
 しかし、聖人の本音は「しかるにいまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す」である。自分のはからいを捨てて、如来の喚び声・「まかせよ、必ずすくう、南無阿弥陀仏」にすっかりおまかせするのが「選択の願海」に転入することであり、「難思議往生」という化生を遂げる道である。
 やはり親鸞聖人のこの本音を説くことが布教の第一義であろう。「今時の大衆には分かってもらえない」と決めてかかる眼力が布教者にあろうか。まず自身がその難思議往生を願う身になり、如来の願海に浸ってその信境を吐露すれば、仏智不思議が自ずと伝わらないとは言えまい。
 大衆に大拍手を期待する「名利」に走らず、「真実義を解したてまつらん」の思い一筋に「お取り次」をすべきではないか。
  「往生はともかくも凡夫のはからひにてすべきことにても候はず」「往生の業には、わたくしのはからひはあるまじく候ふなり」と親鸞聖人も御消息で述べておられる。往生の(胎生・化生)ことは、如来の御はからい・お仕事であって、我々の計らうべきことではない。「あなたの聞きようでは化土往生だ、いやそれもできない、地獄行きだ」などと決める力が人間にあろうか。
  「往生ほどの一大事、凡夫のはからふ べきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし」(執持鈔)である。布教者・住職は「自信(自ら信じ)教人信(人に教えて信ぜしむ)」と、自ら聞き開き、ただそのご縁を人に勧めるばかり。「真実義」は難しいからと、自分も信ぜず、説きもしなかったら、どうなるのか。「天命(如来の大悲)に安んじて人事(大悲伝普化)を尽くす」より他ないのではなかろうか。(20180411)