ZS 知解と体解

 三帰依文の最初は「自帰依仏 当願衆生 体解大道 発無上意」である。この「体解」が仏道修行の真骨頂であり、到達点。「知解」はそこに至る手足の活動だ。知解で宗教(すくい)の論理を客観的に「学問」し、学問して得た宗教(すくいの論理)をわが胸で実験・実証する、救いをわが身に実現するのが体解である。
 このようにいただいていた時、法ハガキに「学仏大悲心」について書いた。するとある法友(中央仏教学院生)からコメントがきた。
 「6月の専修3年の試験に向けて、昨年同様かっかきている私にとって頭を冷やしなさいよ「学仏大悲心」ですよ。の先生のご忠告ありがとうございます。落ち着いて学ばせて頂きます」と。
 そこで返事に書いた。
「学仏大悲心」は意味深長です。「学」というからには、論理的―引いては客観的でなければならないし、「大悲心」という信仰問題になれば、主観的に・・・自分自身の問題にならねばなりません。客観的論理を主観的に咀嚼するといったらよいでしょうか。いいかえれば、仏のお救いの「御計らい」を体解(たいげ)させてもらうこと。体解とは「お念仏申しながら日常の日暮しの一事、一事を体験する中で、ああ、そうだったとみ教えが味わわれ、またお念仏が(口から)でる」ということ、と言えましょうか。
 頭でうなづくだけでは、まだ「知解」(ちげ)の段階です。
 法話をしてもそうだと思います。「学」的なことばかりをならべても、聴衆の胸には「ひびき」ません。「大悲心」が伝
わらないからです。講者が体解していない「学」は骸骨。「大悲心」を体解した血肉がたっぷりついたとき初めて、その法話は「教人信」とはたらくのだと、いただいています。

(出典 聞法ノート H30/2/6))
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