ZS 「立つ」

聖典の中に「立つ」という言葉が何回か出てくる。列挙してみよう。

①「恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道
 を立てしめん(をば除く)」(大経 二十二願)
②「かくのごときの諸仏、各々に無量の衆生を
 仏の正道に安立せしめたまふ」(大経上巻結語)
③「尊者阿難座よりたち 世尊の威光を瞻仰し」 (大経和讃)
④「勢至念仏円通して 五十二菩薩もろともに すなはち座よりたた
しめて 仏足頂礼せしめ つつ」(勢至菩薩和讃) 
⑤「念仏申さんとおもひたつこころのおこると き」(歎異抄 第一条)
⑥「さればそれほどの業をもちける身にてあり
 けるを、たすけんとおぼしめしたちける本願 のかたじけなさよ」
(歎異抄 後序)
⑦「この語を説きたまふ時、無量寿仏、空中に
 住立したまふ」(観無量寿経)

 「立つ」「立ち上がる」ということは、安逸の
座から新たな目標に向かって発動・発起するということ。「日ごろの
こころ」、日常性に安住しないで、菩提をもとめて立ち上がることを
意味するのである。「たつ」は「断つ」にも「発つ」にも連なる。日常
性を「断ち」、無上道に向かって「発つ」のである。そこには決断・
決意・志願がある。
 しかし、その決意、発動は、自発ではない。「立たしめる」ものが
ある。菩薩の願であり、諸仏の勧めであり、世尊の威光であり、
弥陀の誓願であり、五劫思惟の願である。それらの「御もようし」
に与って、立たしめられるのである。
 光は闇を破り、闇は光を仰いで光に向かうのである。
 真宗の阿弥陀仏は立像である。本来、仏は座像=さとりの境地。
だが阿弥陀仏は、今まさに
三悪の火口に堕ちようとしている我々凡夫を撮(つか)みとって救
おうとされるから立ち上がっておられるのである(善導大師)。

 因みに「立」という字は
  大地(_)に人(「大」に似た形の字画)がきちんと立っている
という形声文字である。
 「心を弘誓の仏地に樹て」という祖語を思い出す。弘誓・本願の
光に遇うとき「凡夫の大地に立つ」わが身が知らされ、その大地
が即、如来弘誓の大地である、煩悩の中にこそ如来の大悲大願
がはたらいていてくださることに気づかしめられるのである。
     
(出典 愚石 聞法メモ帖より)
【キーワード】 無上道 菩提心 日常性
  安逸 決断 決意 発願 発菩提心
  弘誓 本願 立撮即行