ZS 一味

   今時の人に「一味」というと「一味とうがらし」のことと思うのが多いだろう。たしかに、そば屋さんなどに入ると「一味」、「七味」と並んでいる。新聞では、「悪党の一味逮捕」というような見出しがあるかもしれない。芸術界では「ひと味違う作風」という評言もあろう。
 それが今日常用されている「一味」という言葉の意味であるが、実はその語源は仏教語なのである。「仏説は時と所に応じて多様であるが、その本旨は同一であること」と『広辞苑』にあり、一切経には三千六百回余り「一味」が出てくる(しかも「海」との関連が多い)。
 そういえば、いつも読誦している正信偈には「如衆水入海一味」とある。「ひとたび仏の大悲心を喜ぶ身となれば、悪人凡夫も聖人賢者もみな等しく、広大無辺な仏のいのちの世界に救われていく。ちょうど、あちこちの川の水はそれぞれ色も味も異なるが、大海に入ればみな「一つ味」にとけ合うのと同じである」という親鸞聖人の味わいが身にしみる頃となった。
 物の本によると、この地球上の「いのち」は海で誕生したのだと言う。とすれば、海はいのちの根源なのだ。人間という尊いいのちも海が親元。人類みな共なるいのちにつながっているのに、核弾頭だ、テロだ、「我国一番」だ・・・などといがみ合ってどうなるのであろう。「いがみあういの字(意の地=いじ)を転じておがみあう」ことだ。一度「海」といういのちの本源を思い返したらどうであろう。「一味」の世界・如来の智慧海の話を真剣に聞いてほしい。
 親鸞聖人は四回もこう和讃されている。

 「名号不思議の海水は 逆謗の死骸もとどま  らず 衆悪の萬川帰しぬれば 功徳のうし
  ほに一味なり」(曇鸞讃)
《思いはかることのできない功徳をそなえた名号の海水には、五逆のものや謗法
のもののしかばねは残らない。さまざまな川も海に流れこめば一つの味になるように、あらゆるものが犯した悪の川が流れこむと、功徳の海水と一つの味になる。》

 「尽十方無碍光の 大悲大願の海水に
  煩悩の衆流帰しぬれば 智慧のうしほに一  味なり」(曇鸞讃)」
《尽十方無碍光如来の大いなる慈悲の本願の海に、あらゆる煩悩の川が流れこむと、智慧の海水と一つ味になる。》

「弥陀の智願海水に 他力の信水いりぬれば
 真実報土のはらひにて 煩悩・菩提一味なり」(正像末和讃)
《阿弥陀仏の本願の海に他力の信心の水が流れこんだなら、真実の浄土にそなわるはたらきで、煩悩とさとりは一つの味となる。》

  「弥陀智願の広海に 凡夫善悪の心水も
   帰入しぬればすははちに 大悲心とぞ転   ずなる」(正像末和讃)
《阿弥陀仏の本願の大海に、凡夫のさま    ざまな心の水が流れこんだなら、その善    悪にかかわらずただちに大いなる慈悲    の心に転じられる。》

折しも七月十七日(第三月曜日)は海の日である。世の識者たち、世界中の人たち、どうぞ海の最高の恩恵であるこの「海一味」の味を噛みしめていただきたい。
         
(出典  浄厳 聞法ノート 29/7/25記)
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