SC 仙陀婆(せんだば))

涅槃経に出る「仙陀婆」のこと

1)大正蔵経より
佛果圓悟禪師碧巖録 (No. 2003 重顯頌古 克勤評唱 ) in Vol. 48
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【九二】擧。世尊一日陞座。賓主倶失。不是一回漏逗。文殊白槌云。・・・・・
T2003_.48.0216c18 更何必文殊白槌。涅槃經云。仙陀婆一名四實。一者鹽。二者水。三者器。四者馬。有一智臣。善會四義。王若欲灑洗。要仙陀婆。臣即奉水。食索奉鹽。食訖奉器飮漿。欲出奉馬。隨意應用無差。灼然須是箇伶俐漢始得。只如僧問香嚴。如何是王索仙陀婆。嚴云。過這邊來。憎過嚴云。鈍置殺人。又問趙州。如何是王索仙陀婆。州下禪床。曲躬叉手。當時若有箇仙陀婆。向世尊未陞座已前透去。猶較些子。世尊更陞座。便下去。已是不著便了也。

2)田上太秀『涅槃経を読む』講談社学術文庫より 
(1935生 駒澤大卒―東大博士課程―駒沢大教授) 
第五章 多彩な譬喩説法   
六 仙陀婆の譬え ー 一味の教え
 仙陀婆とは、サンスクリット語サイ(セ)ンダヴアの音訳である。この語は「海の、海に関わる」という意味の形容詞で、これを仙陀婆と漢訳した。仏典では河川の水が海に流れ込んで一味になることを仙陀婆になると言う。仙陀婆はその意味では種々の河川の水の味を呑み込んで、塩味という一味にしてしまうことを言う“
 これを踏まえて『大乗涅槃経』では、仙陀婆の一語は塩、器、水、馬の四つの意味をもち、状況に応じて、これら四つの意味に使い分けられることを教える。この使い分けに似た「どうも」という日本語がある。この一語で喜びも悲しみも表すことができる。そして挨拶も済ませる。仙陀婆と比べることはできないが、一つのことばが状況に応じて意味が異なり、使い分けられることでは同じである。
 釈尊が法身についての説明で、仙陀婆の譬えを使っている。

 私の秘密語は深奥であり、理解することが難しい。誓えて言えば王が家臣に「仙陀婆を持ってこい」と告げることと同じである。仙陀婆は四つの意味を持っている。一は塩、二は器、三は水、四つは馬である。この四つの意味が仙陀婆の一語で表される。
 だから王が顔を洗おうとしたとき「仙陀婆!」と告げたら、賢い家臣は水を持っ てくる。食事時に「仙陀婆!」と告げたら、塩を持ってくる。食事の後「仙陀婆!」と告げたら、手洗いの器を持ってくる。外出しようとするとき「仙陀婆!」と告げたら、馬を連れてくる。賢い家臣はこのように王の秘密語をよく理解できる。
 もし私が涅槃に入ると言ったら、「世間には不滅のものがあると考える人に一切は無常であることを示したのだ」と理解しなければならない。
 もし私が正法は滅びるだろうと説いたら、「世間は自分の思い通りになると考える人に、世間は自分の思うようにならないと教えているのだ」と理解しなければならない。
 また、私はブツダそのものであると説いた。これは私だけが知るところであるが、不滅のものがあるという意味である。不滅のものがあるという信仰を弟子たちに徹底させるために示した教えである。これを信じて修行する者が私の弟子である。    (如来性品第四の六:大正蔵経十二巻四二一真上~中))

 仙陀婆の意味はその場の状況によって塩であり、水であり、器であり、馬であることを注意深く認識しなければならないと言う。経典の一語一語を普通のことばのように字面だけで理解すると真意をつかめない。ブツダの一語一語は仙陀婆である。
「涅槃に入る」という文句は生死を超えた究極の境地に入るという意味であるが、現実にはブツダがわれわれの目の前から消えるのだから、「ブツダは不滅」とこれまで説法してきたのとは違うのではないかと疑問が湧く。これに対して、釈尊は肉体が滅びるのであり、ブツダが滅びるのではないと教える。形あるものは滅びるという道理を教えるために肉体の生滅を示そうとしているのだと言う。
 「正法は滅びるだろう」とは正法は道理であるから消え去ることはないが、世間に正法を守護する人がいないと滅びるという意味で、正法自体が受け入れられないために滅びるという意味ではないと理解しなければならない。ことばの真意がなにかを行間から読み取る努力が必要である。

3) Yahoo 知恵袋より
  ①元々、仙陀婆とは、「信度産の」という意味である。「信度」とはインド西部の信度地方のことであり、同地では良質の塩・器・馬・水を産していた。この素晴らしい物は4つ共に「仙陀婆」と呼ばれていた。そこで、王索仙陀婆とは、王が仙陀婆を求めれば、臣が直ちに応答して仙陀婆を奉ったことを意味し、この4つの内、どれを選ぶか指示が無くても選んでこれるほどの一体さを示している。いわば、師資の応対時に見える自由な機用を示した言葉である。
②道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では81巻、75巻本では74巻。寛元3年(1245)10月22日、大仏寺で示衆された。

【内容】道元禅師は、『大般涅槃経』の一節から仙陀婆について採り上げており、先に挙げた①の意味を捉えながら「是の如く智臣は、善く大王の四種の密語を解す」と示している。いわば、これは「神通」巻に於ける盥や水を持ってくる学人と同義である。したがって、仙陀婆を索め、奉ることは師資に於ける参学の恒例であるとするのである。

この王索仙陀婆、ならびに臣奉仙陀婆、きたれることひさし、法眼とおなじくつたはれり。世尊、すでにまぬかれず挙拈したまふゆえに、児孫、しげく挙拈せり。

さらに、真の仏祖の言葉には必ず索仙陀婆があることを指摘し、宏智正覚禅師の上堂を引用しながら、そこに見える趙州の曲躬叉手、或いは雪竇が塩を索める師に対して、馬を奉るという状況を挙示している。これは、それぞれ師資一等という状況を、同一的状況と差異的状況とで捉えており、様々な姿で行われるのが、仏祖の参学である。特定の問題に対して、すぐに答えとなるようなピッタリと合う言葉を示すのか、それともすぐには理解されないような言葉を示すのか、この両者ではどちらが優れているかは容易に判別できない。まさに、その都度である。

なお、この後、道元禅師は南泉普願・香厳智閑・世尊の故事を採り上げて、索と奉という二元対待を超えた絶対的な仙陀婆を示すのが同巻の趣旨である。そして当時の中国で、絶対的な仙陀婆を理解しない者が多かったことを批判している。

使得十二時、これ索仙陀姿なり。被十二時使、これ索仙陀婆なり。索拳頭奉拳頭すべし、索払子奉払子すべし。しかあれども、いま大宋国の諸山にある長老と称するともがら、仙陀婆すべて夢也未見在なり。苦哉苦哉、祖道陵夷なり。苦学おこたらざれ、仏祖の命脈、まさに嗣続すべし。

        
(出典 大正蔵経、『歎異抄を読む』、
 『涅槃経を読む』田上太秀 、Yahoo知恵袋等)
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