SC 「真実」の左訓の出拠

智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく
光暁かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ
                        (浄土和讃 第二首)
の「真実明」についている左訓がある。
 「阿弥陀如来なり。真といふは偽り、諂(へつら)わぬを真といふ。実といふは必ずもののみとなるをいふなり」

この左訓の出拠とみられる文が『唯信鈔文意』にある。
 「不得外現賢善精進之相」(散善義)といふは、あらはに、かしこきすがた、善人のかたちをあらはすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆゑは内懐  虚仮なればなり。「内」はうちといふ、こころのうちに煩悩を具せるゆゑに虚なり、仮なり。「虚」はむなしくして実ならぬなり、「仮」はかりにして真ならぬなり。このこころは上にあらはせり。この信心はまことの浄土のたねとなり、みとなるべしと、いつはらず、へつらはず、実報土のたねとなる信心なり。」(親鸞聖人『唯信鈔文意』)

 この出拠文からいうと、「もののみとなる」とは、「もの(人間)と生まれたらみ(実)となれよ、充実した人生を送れよ、実となるとは、迷いをはなれてさとりの仏果を得ることだ。 如来(真実明)は、そうなるようにはたらき続けておられるのだ」という文意だといただかれる。
  「みになる」を「我々凡夫の身になってく ださる」と解釈する人もあるが、「実」の字義から外れているようだ。

(出典 聞法ノート)
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