SC 七分獲一

亡者は供養の七分の一しか受け取れない。六分は
回向する人の功徳になる。

参考
 ▼追善供養の意味と役割
 追善というのは、生存者が善根福徳を修め、それを
亡き人のあとを追うて与えることで、追福(ついふく)と
か、 追修(ついしゅ)とか追薦(ついせん)ともいっていま
す。たとえば『優婆塞戒経』に「もし父喪して、すでに餓
鬼の中に堕す、
子(父の)ために追福せば、まさに知るべしすなはち得
ん」といわれています。また『盂蘭盆経』に、目蓮尊者が、
餓鬼道におちて苦しむ母を救うために、多くの修行者
たちに供養をささげたら、その功徳が母にとどいて餓鬼
道から解放されたと説かれていますが、これはお盆法
要の起源になった有名な追善供養説話です。
 もっとも『斡灌頂経』第十一や『地蔵本願経』巻下など
によると、亡者のために福徳を回向しても、亡者が受け
るのは、その七分の一だけで、七分の六は、回向(えこ
う)する人の徳となるといわれています。
これを「七分獲一(しちぶんぎゃくいち)」とよんでいます。
 生者と死者は、きっちりと別れてしまって、もう生者の
手のとどかないところへ行ってしまったと嘆き悲しんでい
る人に、ほんの一分だけでも、死者にも生者の思いがと
どき、手がとどくのだと教えようとしているのが、追善供養
の教説じゃないでしょうか。
それによって、親しいものと死別した人の深い悲嘆の心
の傷を、少しでもいやしてゆこうとされているようです。
ことに亡くなったものを思うにつけても、生前にああもして
やりたかった、こうもしてやりたかったと、
自分の行きとどかなかったことをくやむ思いが、心をしめ
つけます。そうした悲嘆と後悔にさいなまわれている人の
心の傷をいやす、
という機能を果たしていたからこそ、追善供養という死者
儀礼が、まるで仏教の中心であるかのように、
インドでも、中国でも、朝鮮でも、日本でも盛んに行われ
てきたのでしょう。

 ▼念仏は私の行ではない

 さて五条には、念仏を追善供養の手段にしようとするの
を否定する第二の理由として、
   わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を
回向して父母をもたすけ候はめ
といわれてます。
 たとえば自力をもって布施を行じ、すぐれた徳をわが身に
積みかさねながら、その果報を自分が受けずに他者にゆず
り与えてゆくというのならば、まだしも話はわかりますが、念
仏は、
称えて功徳を積み重ねてゆくというような自力の行ではあり
ません。仏になるにふさわしい善を行ずる事もできず、功徳を
積むこともできない愚悪(ぐあく)の凡夫を救おうとして、如来が、
御みずからの徳のすべてを名号にこめて、恵み与えた如来回
向の行なのです。それゆえ私どもは、ただありがたく頂戴(ちょう
だい)すべきであって、わがもの顔に他の人に回向しようなどと
考えるべきではありません。私が回向するまでもなく、 如来は
万人にわけへだてなく回向しているのです。念仏をすすめてい
るといっても、如来が私にもあなたにも、念仏を与えていること
を説くほかにないのです。
 こうして、如来が回向した本願の念仏を、はからいなく信受し
て、浄土に生まれさせていただき、すみやかにさとりを開くなら
ば、六道にあって、胎生(たいしょう) (母胎から生まれる)、卵
生(らんしょう)(卵から生まれる)、
湿生(しつしょう)(湿気の中からわき出る)、化生(けしょう)(忽念
(こつねん)として変現して生まれる)といった四生(ししょう)の
どんな生まれ方をしているものでも、神通力(じんつうりき)をもっ
て救うてゆくことができるのだから、追善供養を行う必要はない
といわれるのです。 (梯 実円)

(出典 ネット)
【キーワード】追善供養 供養者の功徳
       歎異抄5条 念仏は大行