SC 夢告讃の「うれしさ」

 『親鸞聖人真蹟集成』には、今我々が常用している『正像末和讃』の元である『正像末法和讃』草稿本の三十五首(「五十六億七千万・・・」以下「如来大悲の恩徳は・・・」まで)の和讃が載せられており、次にとつぜん「夢告讃(むこくさん)」が出てきます。
「康(こう)元(げん)二歳丁巳(ひのとのみ)二月九日の夜寅時(とらのとき)夢の告げにいはく
 弥陀の本願信ずべし
  本願信ずるひとは みな
  摂取不捨の利益にて
  无上覚をばさとるなり
この和讃をゆめにおおせを蒙(かぶ)りてうれしさにかきつけまいらせたるなり
正(しよう)嘉(か)元年丁巳壬(うるう)三月一日
        愚禿親鸞八十五歳書之」
 親鸞聖人が八十四歳のときいわゆる善鸞義絶事件が起きました。関東の門弟間におきた造(ぞう)悪(あく)無(む)碍(げ)(どんなに悪いことをしても往生の妨げにならない)という異義を鎮静するため、聖人は息男慈信房善鸞を関東に派遣されたが、結局治めきれず、かえって門弟たちとの対立が深まり、ついに聖人は「かなしきことなり」と嘆きつつ善鸞と親子の縁を切られたのでした。老齢になられてからのこの悲歎は、聖人のお心に深く刻まれたことでしょう。
 その翌年に上の夢告讃を感得されたのです。聖徳太子のお告げだろうと言われていますが、ともかくも聖人はこの夢告の「うれしさ」を五十日間胸に秘めながら「正像末法和讃」をお書きになり、それが終わったところで胸中の秘讃を公開されたのだと拝察します。あくまでも「お告げ」の言葉として、仮名や左訓はついていません。ただ夢告を喜ばれ、深く味わわれたことでしょう。
 その「うれしさ」とは何でしょうか?
 第一に、義絶という「かなしみ」の暗い心に光がさしたこと。「人を信じるのではない、『弥陀の本願を』信ずべきだ」とのお諭(さと)し。聖人は「雑行を棄(す)てて本願に帰」したあの六角堂ー吉水での感激の原点を再確認されたことでしょう。
 今一つ。「本願を信じる人は みな、凡夫であれ聖(ひじり)であれ、慈信房であれ愚禿であれ、みな等しく如来のみ光の中に攝(おさ)め取られ包みこまれていく。だからこの世の迷い苦しみのまま必ず仏と成る身と定まり、遂には『无(む)上(じよう)覚(かく)』というこの上ないさとり、つまり『弥(み)陀(だ)同(どう)体(たい)のさとり』を得させてもらうのであるとは!この煩(ぼん)悩(のう)具(ぐ)足(そく)の身で!」と聖人は無上の「うれしさ」を感得されたのでした。
 聖人八十五~八十八歳にかけての御著写は実に驚異的。聖人の信火が最高に燃え上がった。その導火線は夢告讃の「うれしさ」であったに違いないと思っています。
 大谷派では夢告讃に「唱和」の譜がついていません。聖人からの私に対するお告げといただき、拳(けん)々(けん)服(ふく)膺(よう)、ただ念仏あるのみです。

  この八十五歳のときの『正像末法和讃』(草稿本)の後、翌年八十六歳のとき(九月二十四日付)に『正像末法和讃』(完稿本)を書かれています(顕智書写本あり)。これが常用の『正像末和讃』の原型ですが、夢告讃のところは、和讃だけで終わっていて、その後の
   「この和讃をゆめにおおせを蒙(かぶ)りてうれしさに かきつけまいらせたるなり
    正(しよう)嘉(か)元年丁巳壬(うるう)三月一日
        愚禿親鸞八十五歳書之」
はどういうわけか載っていません。しかし草稿本の「うれしさ」の感慨表現は重要です(大谷派の『聖典』にはその註記だけありますが、本願寺派の『聖典』には何も言及がありません。)
 だから、いわゆる「正像末和讃」の成立過程を認識しておくべきです。
 ①『正像末法和讃』草稿本 (釈覚然書写?)
   親鸞聖人85歳
 ②『正像末法和讃』完稿本 (顕智書写本)
   親鸞聖人86歳
 ③『正像末和讃』蓮如開版本(常用のもの)
   親鸞聖人88歳に補訂

(出典 聞法ノート)
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