SC 「見真大師号」の問題点と秘話

A)大師号追贈[編集]
  (Wikipedia)
明治9年(1876年)11月28日、明治天皇より「見真大師[注釈 43]」の諡号を追贈される。西本願寺・東本願寺・専修寺の御影堂の宗祖親鸞の木像の前にある額の「見真」はこの諡号に基づく。
浄土真宗本願寺派は、「本願寺派宗制[1]」を2007年11月28日改正・全文変更(2008年4月1日施行)し、宗門成立の歴史とは直接関係ないなどの理由により親鸞聖人の前に冠されていた「見真大師」の大師号を削除する[42]。同年4月15日には、「浄土真宗の教章[注釈 44]」も改正し、大師号が削除され新「浄土真宗の教章[2]」が制定される。真宗大谷派は、1981年に「宗憲」を改正し「見真大師」の語を削除した。また御影堂に対して用いられていた「大師堂」の別称を本来の「御影堂」に復した。

B)見真大師」号と「勅額」
  (hajimema33のブログ:2017-10-22)
 
 浄土真宗の宗祖である親鸞は、1876(明治9)年11月28日に「見真」の大師号の宣下を太政官より受ける。見真なる大師号は、明治政府へ東西本願寺、専修寺・仏光寺・興正寺・錦織寺の真宗六派の住職が連名し内願し、明治天皇より贈られた「諡号」である。東西本願寺は、1879年9月29日に明治天皇の「見真大師」を宸毫による額の下賜を受ける。天皇の宸毫を額装したものであるため、政府は「勅額」と名付けて下賜した。そして、現在の東西本願寺の御影堂に奉懸されている勅額は、明治天皇の宸毫をもとに作成された複製である。1882年3月22日に宮内省より、天皇の印璽(「御名御璽」)の押印を受けることにより、明治天皇の宸毫をもとに製作された勅額であるという認可を受け、東西本願寺の御影堂外陣正面に奉懸された。高田専修寺もこれに続いた。

 さて、見真大師については、東本願寺では1981年の「宗憲」改正の際に大師号の使用が廃止され、西本願寺でも2007年の「教章(私の歩む道)」において使用が停止された。ともに「見真大師」という親鸞に贈られた諡号に問題性を見てとっての措置であると思慮される。残念ながら、東西本願寺の宗政当局から、宗祖である親鸞へ明治天皇より、個人の業績を讃えるために尊称として贈られた諡号である見真大師使用停止の事情の説明はなされていない。ここでは、なにゆえに見真大師という天皇よりの諡号が浄土真宗の宗祖に贈られた尊称・別称として不適切だと思慮されるのかを考えてみよう。

 見真大師号と勅額が受け入れられない理由は、(1)真宗の教えからの問題点、(2)真宗の儀礼・荘厳からの問題点、(3)歴史上からの問題点の3点を大掴みにあげることができる。

 まず、真宗の教えから上の問題点は、そもそも大師号は優れた業績の高僧へ追贈した諡号ということである。これは、見真が、『大無量寿経』の「五眼讃」の「慧眼見真 能度彼岸(慧眼は真を見てよく彼岸に度す)」を出典とし、真宗に相応しいと主張しても、これは大師号を明治政府へ教団側が内願した経緯があり、名前が相応しいのは自作であるゆえ当然であった。問題なのは、諡号は国家が故人へ贈る尊称であり、勅額は宸毫による書き出しで、奉懸されている額装(見真額)はその複製であるということである。つまり、死者の生前の業績を評価し、天皇から賜った尊号として額装して奉懸することが真宗の教えに照らして、果たして然るべき行為であったか、である。諡号が故人の生前の業績に従って作成され、位牌を見ればどのような社会的身分を持った死者であったが一目瞭然にして、死者の評価を現世の身分・階級により儒教式の「位牌」を彷彿とさせる。本来、真宗における仏法上の名告りは「法名(釈○×)」であり、社会的地位・身分・業績は関係なく、真宗門徒であることの表白である。従って、東西本願寺が教団的課題とする、法名を門徒の社会的地位・身分に反映させてきた差別の歴史と決別し、本来の法名の名告りをと願う立場からすれば、地位・身分・業績の国家評価を受けた大師号は、真宗の教えに対立すると考えるのが通常である。

 第二点は、礼拝施設である御影堂の儀礼・荘厳の問題として勅額奉懸である。何といっても、勅額は宗祖親鸞への見真大師という諡号を、明治天皇の宸毫から金泥文字で複製し金襴彫刻で額装した。これを外陣とはいえ御影堂の正面に掲げ、この勅額へ参詣し仏事勤行に参加する真宗門徒は礼拝することになる点である。外見的には、真宗には不必要な「位牌」を仏壇に置いたり、また、仏間の上部にに真宗の荘厳と関係ない物を掲げ、そこを目掛けて礼拝するのだから、仏壇の上に神棚や十字架を置くに等しいという意見もある。そして重要なのは、もとより東西本願寺御影堂には、大師号宣下以前に勅額は存在せず、額を奉懸すること自体が、御影堂の荘厳や勤修される儀礼に反するという見方である。

 第三点が、大師号と勅額の日本仏教史における特異な性格である。大師号は真宗に限らず、日本仏教各宗の宗祖・開基・中興と呼ばれる僧侶に追贈された天皇からの諡号である。866(貞観8)年7月に清和天皇より日本天台の開祖最澄へ伝教大師、延暦寺横川中堂開基圓仁へ慈覚大師の宣下が嚆矢である。現存の大師号宣下の原本は圓珍の智者大師が最古の伝来で、圓珍への大師号「宣旨」により、天台宗や真言宗が天皇諡号である大師を望んだ事情が垣間見れる。平安時代以降、日本で新しい仏教の宗派が形成した場合、宗派としての独立は、寺院としての本山は門跡寺院となることにより運営組織を組み上げ、本山の住持は僧侶界のトップである大僧正として宗門の僧侶を生産・管理し達成いた。ところが、教団成立期のそれぞれの本山は寺院社会での格も低く何れかの宗の傘下に間借し、宗祖と呼ばれる人物でも僧侶としての位もそう高くはなかった。大師号は、日本における寺院社会という身分・差別のなかで、当初は新興勢力であった各宗派が、天皇・上皇より「大師号」を諡り名されることにより、皇室を仏教教団のオーナーとして推戴することが可能になり、日本社会への定着が完成していくわけである。

とすれば、真宗の宗祖親鸞は流罪後に無位無官となり、非僧非俗の宗教者という自己規定により宗教活動は支えられた。また、寺院組織とは無縁に過ごし、終の住処は天台僧である弟尋有の里房三条富小路善法房であった。こうした生涯を送った親鸞への大師号、親鸞へ大師号を宣下した明治天皇を、あたかも真宗という仏教教団のオーナーとして推戴した象徴である「勅額(見真額)」であるということになる。750回忌の御影堂修復の機会に完全な修復、不必要なものは片づけ、本願寺の創建当時の荘厳に戻すことが大切となる。また、このことは世界文化遺産という文化財価値の面からみても、皇室が日本仏教のオーナーであるという印象を拭う一助となるであろう。( 『同朋の広場』誌に掲載されたもので、菅原龍憲さんへお世話をかけた。)


C)=西野神社 社務日誌=
(2013-07-17 見真大師号と見真額)
(札幌市西区平和に鎮座する西野神社のブロ  グ。西野神社は、西野・平和・福井の氏神  様です。)

「大師は空海にとられ、太閤は秀吉にとられ」もしくは「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」という格言を御存じでしょうか。
 「大師」とは、中国や日本において、高徳な僧に朝廷から勅賜の形で贈られる尊称の一種(大抵は死後に贈られる諡号)で、日本の歴史上、大師号を贈られた高僧は何人もおり、例えば伝教大師(最澄)、慈覚大師(円仁)、興教大師(覚鑁)など知名度の高い大師も少なくはないのですが、しかしほとんどの場合、単に大師といえば弘法大師空海の事を指すのが慣例となっています。親しみを込めて「お大師さん」と称される事もありますが、この場合のお大師さんとは、ほぼ例外なく弘法大師を指します。
一方、「太閤」は、摂政または関白の職を子弟に譲った人物の事をいい、大師と同じように日本の歴史上、太閤と呼ばれた人物は何人もいるのですが、近世以降、単に太閤といえば例外なく秀吉一人のみを指すようになり、秀吉が大坂城を築いて天下に号令をした大阪では、今日でも、親しみを込めて秀吉の事を「太閤はん」と呼ぶ人がいる程です。
こういった現状を踏まえ、事実上、大師という尊称が空海の、太閤という尊称が秀吉のそれぞれ専売特許になっている事を、「大師は空海にとられ、太閤は秀吉にとられ」というのです。

このように歴代の「大師」の中では、今も昔も空海が突出して有名であり、そのため一般にはあまり知られていないのですが、実は空海以外の伝統仏教各宗派の開祖達も、全員ではないもののその多くは、朝廷から大師号を贈られています(大師号ではなく、国師号や禅師号を贈られている開祖・高僧も多数いますが)。
例えば、融通念仏宗開祖の良忍は聖応大師、浄土宗開祖の法然は円光大師、曹洞宗開祖の道元は承陽大師、日蓮宗開祖の日蓮は立正大師、黄檗宗開祖の隠元は真空大師、といった大師号の宣下をそれぞれ受けています。

さて、今回特に注目したいのは「見真(けんしん)大師」という大師号です。
皆さんは、見真大師が一体誰の事を指しているか、御存知でしょうか。すぐに分かった方は、かなりの歴史通もしくは仏教通です(笑)。しかし、見真大師という名は聞いた事がなくても、親鸞(しんらん)と聞けば、大抵の方は「知っている」と答えると思います。そうです、見真大師とは、浄土真宗の開祖である親鸞の事です。
この見真大師という大師号は、明治9年に明治天皇から東西両本願寺を始めとする真宗各派に宣下されたものですから、大師号としては、かなり新しいものといえます。
なぜ明治時代になって突然、親鸞に大師号が贈られたのかというと、それは、贈る側(皇室や国など)の都合ではなく、贈られる側、即ち真宗サイド、特に東本願寺の事情によります。

東西両本願寺分立の経緯については、かなり長くなってしまうのでここではその詳細は割愛しますが、両本願寺分立時の事情から、江戸時代、東本願寺(現在の真宗大谷派)は「神君(家康)お引き立て」の教団として、幕府から何かと特別の恩恵を被ってきました。東本願寺は、徳川家本来の宗旨である浄土宗の増上寺や知恩院などと同等以上の特権的な待遇を与えられ、幕末期には本山内に東照宮を勧請までしていました。
それに対して西本願寺(現在の浄土真宗本願寺派)は、浄土真宗の本家本元として、朝廷の定めた格式では東本願寺よりも上とされていたものの、実際には常に東本願寺の後塵を拝し、肩身の狭い思いを味わってきました。

しかし、江戸幕府の崩壊と明治新政府の成立が、それまでの両者の立場を一気に逆転させました。
戦国時代末期に十年に亘り続いた、信長と石山本願寺(一向一揆)が戦った石山合戦では、長州の毛利水軍が門徒勢力を支援し、瀬戸内海から運んだ弾薬や食料を石山本願寺に陸揚げするなどしたのですが、西本願寺では苦しい戦いの時に助けて貰ったその時の恩を忘れず、江戸時代、外様大名として幕府から冷遇されていた長州藩を何かと助け、幕末期に、禁門の変に敗れた品川弥二郎ら十数名の長州藩兵が西本願寺に逃げ込んできた時には、一旦かくまった上で僧衣を着せるなどして落ち延びさせました。
そういった経緯から、薩長を始めとする勤皇派と深い関係を確立するようになっていた西本願寺は、いち早く勤皇派に十数万両を献金し、明治新政府の成立後は、直ちに親政府教団としての地位を確立させたのです。

それに対して東本願寺は、幕府との長年の密接な関係から、徳川慶喜が大政奉還し幕府が事実上消滅した後も、「御恩返しとして、門徒や僧侶で軍隊を編成し、幕府軍の指揮下に入らせて貰いたい」と願い出るなど、親幕府の態度を取り続けました。
東本願寺が薩長勢力と戦わない事を決めたのは戊辰戦争が始まってからで、このため東本願寺は、新政府への忠誠の証に2万両の軍資金や5千俵の兵糧米を供出させられる事となり、戊辰戦争の後は、極めて困難な事業となる事が明白であった北海道開拓を命じられるなどし(政府の命令で開拓させるのはさすがに露骨過ぎたので、表向きは東本願寺側から「北海道の開拓に従事したいので許可して下さい」と願い出る形が取られました)、結果的に、時流に乗り遅れた代償は高くついてしまったのです。

明治初年は、全国的に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたため、真宗のみならず仏教界にとって受難の年となりましたが、その廃仏毀釈の嵐が収束すると、明治新政府と親しい関係にある西本願寺に対して遅れを取りがちな事に焦りを抱いていた東本願寺は、その遅れを取り戻すための手段のひとつとして、宗祖親鸞への大師号奏請運動を、熱心に始めるようになりました。
元々、真宗各派にとって宗祖である親鸞に大師号の宣下を受ける事は、江戸時代以来の懸案であり、1761(宝暦11)年の親鸞聖人五百回遠忌法要に際しては、当時の東西両本願寺が競って朝廷に宣下を奏請したため、その時は一時、実現に向けて動き始めたのですが、結局、諸般の事情で沙汰やみになりました。
その後、この問題が格別に大きくクローズアップされる事はなく、明治時代に入ってからも、西本願寺21世法主の大谷光尊(明如上人)は「宗祖に大師号は無いほうが良い」と考えていたそうですが、前述の理由から当時苦境に陥っていた東本願寺は、「宗門の社会的な地位を確固としたものにするために、是非大師号が欲しい。宣下で門徒が沸き立てば、財政の窮迫を切り抜ける突破口にもなるはず」と考え、熱心に大師号宣下の運動を始めたのです。
そして、その熱心な運動が実り、明治9年、明治天皇から「見真大師」の号が、東西本願寺など真宗各派に宣下されたのでした。

私の手元にある、西本願寺の教学振興委員会が編集し本願寺出版社が発行した「浄土真宗必携」という本(平成19年・第2版18刷発行)には、「見真大師」号と、下賜された「見真」の勅額(扁額)について、以下のように説明されています。この説明を読むと、大師号奏請にあまり熱心ではなかったとされる西本願寺も、少なくとも表向きは、「見真大師」号については「大変ありがたいもの」と認識しているようです。
『聖人を見真大師とよぶのは、一生をかけて、真実に生きる道を見出すために、ひとすじに生きぬかれた聖人の全人格と、幾千万の人びとに、まことの救いの光りを恵まれた功績をたたえて、明治天皇からおくられたものであり、わたくしたちが報恩のあゆみをはこんで御影堂にぬかずくとき、正面頭上にかかげられている巨大な額がそれであります、まことに親鸞聖人こと、見真の聖者でありました。』

ところが、東本願寺の側が強く望んで宣下を受けたはずの「見真大師」号に対して、戦後、東本願寺の教団(真宗大谷派)内部では、一部の僧侶を中心に(決して門徒全体の兆候ではありません)、かなり冷ややかな見方をする傾向が見られるようになってきました。
戦後、急速に左傾化してきた東本願寺では、靖國神社問題(靖國神社は侵略戦争を美化する施設、靖國神社は政教分離に違反している、信教の自由を守れ等の主張から、真宗は“反靖國”の運動を積極的に推し進めています)への取り組みをきっかけに、宗門の近代史の再検証が進められるようになり、その過程で、戦前や戦時中の自らの教団の姿勢について「時局に迎合して、天皇や国家を絶対とし、戦いを“聖戦”と賛美し、戦争に協力した宗門のあり方を反省する」と評する気運が高まってきました。
そして、こういった気運に同調して、一部の真宗大谷派僧侶から「朝廷の弾圧によって流罪にされながら、念仏一筋の信仰を貫いた親鸞聖人の遺徳を偲び、顕彰するのに、天皇から与えられる大師号は相応しくない」「そもそも門信徒達は親鸞聖人のことを御開山と呼びならわし、見真大師という呼び方は全く定着していない」との声があがるようになり、真宗本廟(本山東本願寺)の御影堂正面の軒下に掲げられている「見真」勅額は下ろすべきである、という意見まで堂々と主張されるようになってきたのです。
<以下中略>

以上の資料を読むと、野党側議員はかなり強硬に見真額の撤去を主張しており、また、多数の教区からもそういった請願が出ているらしい事が窺えるので、一見すると、宗団内では見真額撤去の声がかなり根強いかのような印象を受けますが、これらをよく読めばお分かりにように、それら野党議員の請願は、実際には賛成少数により全て不採択とされており、まだ宗団内で主流を占める考えにまでは至っていないのが現状のようです。

では、現在の真宗大谷派では、この問題はどのように進展しているのかというと、結論としては、前出の平成22年当時とあまり状況は変わっていないようです。
先月(平成25年6月)開催された第58回宗議会・常会では、同朋社会を目指す会(野党会派)の田澤議員が、見真額について、「前・安原内局は『歴史の検証と課題の共有を持って、同額を下ろすかどうかを判断する』としたが、現内局はどうするつもりか」と質問し、初めて里雄内局の見解をただしたのですが、内局の木越参務は、「現内局は下ろす、下ろさないの判断をすべき時期には未だ至っていないと判断する」と答え、前内局と同様に課題の共有が先決として性急な判断を避けました。
内局のこの見解に対して、田澤議員は、見真額に関する内局答弁の変遷を振り返り、当初は「国家と宗教に関わる問題であり、教団の負の歴史」としていたものの、徐々に「宗門存続を願う先輩達の純粋な願いの象徴」の面が強調されてきたとし、「靖国問題が空洞化している」と危惧の念を表明しました。
見真額と靖國神社に何の関わりがあるのか、私のような凡夫にはさっぱり分かりませんが(笑)、とりあえず、何でもかんでも強引に靖國神社に結び付けるのは、やめて貰いたいものです。

ちなみに、浄土真宗本願寺派(西本願寺派)の靖國神社に関する諸問題に対しての公式見解は、平成18年11月10日付の記事で紹介させて頂きました。また、同派の僧侶を原告団長とする遺族達が、遺族の承諾を得ずに近親者が靖國神社に合祀された事と、合祀が継続された事(それにより精神的苦痛を受けたそうです)から、靖國神社に対して霊璽簿・祭神簿・祭神名票から合祀された近親者の氏名抹消を求めると共に、合祀に協力した国に損害賠償を請求した裁判については、平成21年5月12日付の記事で詳しく紹介させて頂きました(勿論原告の敗訴です)。
これら2本の記事には、真宗大谷派(東本願寺)の見解は載っていませんが、基本的に靖國神社に対しての両本願寺の見解は同一なので、これらの記事も併せて御参照下さい。

皇室・神社・日本の伝統を護持する立場の神道人として、“反靖國”を掲げる真宗教団が抱く歴史観・政治観は、私がそれに個人的に興味があるか無いかに関係なく常に的確に把握しておく必要があり、そのためにも、真宗各派の靖國神社に対する対応と、見真額の扱いについての宗団内のやりとりは、今後も注視していこうと思っています。
(田頭)
        
(出典 ネット A hajimema33 ブログ
        B 西野神社社務日記)
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