SC 「兮」の文字と親鸞聖人

後序中の「兮」(ケイ)〈感動の助字:普通は読まない文字〉と「悲喜の涙」
☆『教行信証』のいわゆる「後序」(後人の呼称)は『化身土巻』(末)の本文の最後、論語(季路のこと)の引文の後、1行の空白を措いて聖人ご自身の忘れ難い生涯の「由来」が書き始められている。
先ずは35歳時の承元の法難について:
A)竊以聖道諸教行証久廃、浄土真宗証道今盛。(ヒソカニオモンミレバ、聖道ノ諸教ハ行証久シクスタレ、浄土ノ真宗ハ証道イマサカリナリ。)
然諸寺釈門昏教兮、不知真仮門戸。(シカルニ諸寺ノ釈門教ニクラク兮(シテ)、真仮ノ門戸(コ)ヲ知ラズ。) 洛都儒林迷行兮、無辯邪正道路。(洛(ラク)都(ト)ノ儒林(ジユリン)行ニ迷(マド)フ兮(テ)、邪正ノ道路ヲ辯(ワキマ)フルコトナシ。)〈『真聖全二』201頁より〉
 ☆普通訓読体になっている『聖典』では「教に暗くして、真仮の門戸を知らず」と読んでいるが、原本(漢文)ではそこに「兮(ケイ)」(感動を表す助字:通常は読まない字)が入っている。
 A)で2回。
「諸寺(延暦寺や興福寺など)の僧侶たちは、教えに暗くして兮」、どうして念仏停止の訴えを起こしたり、「朝廷に仕えている学者たちも、行(聖道の雑行・浄土の正行)の見分けがつかず」にいて、どうして専修念仏弾圧の裁きに関わることができたのか」という聖人の烈しい情動が「兮」の文字に表出されている。
 …そして「法難」の次、法然上人との邂逅・信任の叙述でも2回⇒
B)然愚禿釈鸞建仁辛酉暦棄雑行兮帰本願。(シカルニ愚(グ)禿(トク)釈ノ鸞、建(ケン)仁(ジン)辛(シン)酉(ユウ)ノ暦(レキ)、雑行ヲ棄テ兮(テ)本願ニ帰ス。)
 元久乙丑歳蒙恩恕兮書選択。(元(グエン)久(キユウ)乙(キノトノ)丑(ウシ)ノ歳、恩(オン)恕(ジヨ)ヲ蒙フリ兮(テ)『選択』ヲ書シキ。)
☆「29歳のとき、比叡山での「雑行」(諸行の念仏)を棄てて、法然上人の『ただ念仏して』のお導き、『弥陀の本願』による故にとのみ教 えに夜明けができた喜び。33歳のとき、法然上人から特別のご信任を得て、内秘の御著『選択集』の見写、さらにはご真影の図画まで許されたときの感激。忘れ難い!」そのお喜びがそれぞれ「兮」に顕れている。

 …こうして聖人は、『教行信証』でも他著でも初めてご自身のことについての陳述をされたが、その結びは:-
C)仍抑悲喜之涙註由来之縁。(仍(ヨツ)テ悲喜ノ涙ヲ抑(オサ)ヘテ由来ノ縁ヲ註(チユウ)ス」
☆承元の法難は忘れ得ぬ「悲しみ」、法然上人にめぐり遇えて出離の強縁をいただいたこと、更には入門4年にして恩師から特別の信任を得たことは生涯最大の「喜び」。その「悲・喜」の感動が(A)(B)の原文で「兮」となって表出されたに違いない。
 因みに親鸞聖人の全著述の中で「兮」の字は上記後序の中の4回だけであり※、ご自身について書かれた「涙」という字は(C)の中の「悲喜の波」1回だけである。
 (序でながら、(C)の文に続く「慶哉樹心弘誓仏地…」が『教行信証』論述の真の「後序」であろう。)
(※この後序の兮4回は、『親鸞聖人伝絵』(覚如)に再現されるているが、『嘆徳文』(存覚)には独自に6回「兮」の使用がある。)

(出典 聞法ノート)
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