SC  仏の三不能

1)「仏は一切のことにみな自在を得玉へりとい へども、その中に三不能といえることあり。 一には無縁の衆生を度することあたわず。二 には衆生界をつくすことあたわず。三には定 業を転ずる事あたはず。定業とは前世の善悪 の業因によりて、感得したる善悪の業報なり。 これは仏菩薩のちからも転ずる事かなわず。 これらはみな前世の業因にこたへたる定業な り」(『夢中問答』)
  <注:『夢中問答』は南北朝時代、夢窓疎石(1275~1351)述の禅についての問答集。>

2)「仏三不能」論の原点は中国・北宋代、道原の編纂になる『景徳傳燈録』(1004年)にある。

★大正新脩大蔵経 51巻
 景徳傳燈録卷第2四
              佛能空一切相成萬
T2076_.51.0233c19: 法智。而不能即滅定業。佛能知群有性窮億
T2076_.51.0233c20: 劫事。而不能化導無縁。佛能度無量有情。而
T2076_.51.0233c21: 不能盡衆生界。是謂三不能也。
(注① 景徳伝灯録、全30巻は、中国・北宋代に道原によって編纂された禅宗を代表する燈史である。
  ②上記の漢文を含む一節(国訳)を以下に掲載する。)

★【景徳伝灯録 巻第四】(国訳一切経 史伝部  景徳伝灯録 上巻 102頁)                           
嵩嶽*(すうがく)元珪禅師は伊闕の人なり。姓は李氏、幼歳にして出家す。唐の永淳二年*(683年)、具戒を受けて閑居寺に隷ふ。毘尼を習ふも解すること無し。後、安国師に謁し、印するに真宗を以てせられ、玄旨を頓悟す。遂に廬を嶽の?塢に卜す。一日、人に異なる者有り。…大師に謁すと称す。師、其の形貌の奇偉にして常に非ざるを観、之に諭して日く。善来、仁者。胡為ぞ、至れると。彼れ曰く。我れは、この嶽の神なり。能く人より生死す。師、寧んぞ我を一目することを得んと。師曰く。吾れ本、不生なり。…神、稽首して日く。我れ亦、余神より聡明正直なり。?ぞ、師の広大の智弁有ることを知らん。願はくは、授くるに正戒を以てし、我れをして世を度せしめんことをと。師日く。汝、既に戒を乞ふ。即ち既に戒なり。・・・
無心なれば則ち無戒なり。無戒なれば則ち無心にして仏も無く、衆生も無し。汝も無く及び我れも無し。汝、無くんば執れか戒と為さんと。神曰く。我が神通は仏に亜(つ)げりと。師臼く。汝が神通は十句に五能五不能にして、仏は則ち十句に七能三不能なりと。神、悚然として席を避け、脆いて啓して日く。聞くを得べきやと。師日く。汝、能く上帝に戻りて天行を東にし、七曜を西にせんやと。日く。能はずと。師曰く。汝、能く地祇を奪ひ五嶽を融して四海を結ばんやと。日く。能はずと。師曰く。是れ五不能と謂ふ。仏は能く一切の相を空じて万法の智を成せども、即ち定業を滅すること能はず。仏、能く群有の性を知りて億劫の事を窮むれども無縁を化導すること能はず。仏は能く無量の有情を度せども衆生界を尽くすこと能はず。こをれ三不能と謂ふなり。定業も永久ならずして、無縁も亦一期と謂ふ。衆生界、本、増減無く、更に一人の能く法有るに主たる無し。法有りて主無き、是れ無法と謂ふ。法無くして主無き、是れ無心と謂ふ、我れの解する如く仏も亦神通無し。但だ能く無心を以て一切の法に通達するのみと。

☆上記の文の要点
 ①嵩嶽元珪(唐代:7世紀)は禅の一師(但し中国禅宗の「法嗣」には数えられていない…Wikipedia「禅」)
 ②元珪が嵩嶽の神に禅の心を教える
 ③神でも五能五不能
 ④仏でも七能三不能
 ⑤禅の無心のみが一切法に通じる
 →⑤が眼目の本論で、④は補足の傍論。
★ところが、それ以後の禅系語録△にはこの『景徳伝灯録』中の一節の中の④を殊更に引用され、「仏の三不能」が禅宗の定説になっている観がある。
   △禅系語録の例: 
 ・『宋高僧伝』(宋代:988年)
   ・『仏祖歴代通載』(元代:1344年)
  ・『釈氏稽古略』(元代:1354年)
   ・『夢中問答』(日本南北朝代:1275~1351)

3)浄土真宗における「仏三不能」の見解
☆ 【仏教大辞彙】
  サンフノウ 三不能 仏力も亦及ぶ能はざる三事。(以下、景徳伝灯禄巻四=上掲=を引用し)是を三不能と謂ふ」と。蓋し是れ小乗応身仏に就いて云ふ所にして其大乗の  宗意より云へば禅師自らも云へるが如く「定業も亦牢久ならず、無縁も亦一期を謂ひ、衆生界は本より増減なき」なり。
  →大乗仏教では「三不能」はないとの解釈。
☆池田勇諦「聞法は聞己」(平成17年度 真宗出雲路派夏期講習会法話)
  …「三不能」を題材にしての法話
  1)定業を滅すること能わず
    定業とは因縁によって生起したもの
    業道の必然性である
    人生の厳粛なる事実である…わが思い通りにしようとしても不可
  2)無縁を度すること能わず
    縁なき衆生は度しがたし
    ☆「一人前の顔をしているお前こそ無宿善の機だ」(蓮如)
  3)衆生海を尽くすこと能わず
    衆生多少力不思議
    いのちの連なり=連続無窮=衆生無辺
    仏の救済は永遠に続く
  ★「仏でも不可能の三事がある」のではなく
   「不可能を不可能と悟ったのが仏」である   備考 「我欲手伝う仏いまさず」を参照
   →「人生の厳粛な事実を自覚せよ」が法話主旨:一応、「三不能」説を認めての法話。
☆当住(淨厳)の見解
 【浄土真宗では「仏の三不能」はありえない】
 上記の『仏教大辞彙』にいうように、『景徳伝灯録』にいう「仏」は「小乗応身仏」というべきか、少なくとも中国禅僧嵩嶽元珪禅師が言及している「仏」は法身の「阿弥陀仏」で はない。ただ禅のさとりは「無心」だという主論を述べんがための傍論に「五不能、三不能を話題にしたにすぎない。
   阿弥陀仏には「三不能」は成り立たない。 その理由:
 1)「定業」とは「業繋」でもあるが、業繋は阿弥陀仏の光(光明・名号)に遇えば除かれる。
  「清浄光明ならびなし 遇斯光のゆゑなれば  一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ」(親鸞 浄土和讃)
 2)「無縁」を救うのが阿弥陀仏の大慈悲である。観無量寿経に「仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもって衆生を摂す」とある。
   また親鸞は「謗法・闡提も廻すれば皆往く」(浄土文類聚鈔)と述べている。「一闡提」は「無縁」に通じる。無縁も究極的には回心すれば救われる。
 3)「衆生海」は無辺であっても、寿命無量(三世に亘り)、光明無量(十方無碍)の阿弥陀仏は、時空の制約を超えて「十方衆生」を永久に救い続ける。
   さらに、阿弥陀仏の浄土に生まれたものは、還相回向の利益を得て、衆生を済度し続ける。
 ☆要するに「五つの不思議」(衆生多生不思議・業力不思議を含む)の中で「仏法不思議」 (阿弥陀仏の誓願不思議・他力不思議)に勝るものはないのである。
   →仏智不思議を信じる者は、自力聖道門でいう「三不能」に毫も惑わされることはない。   さらに苦言すれば、この「三不能」なる文言は中国の景徳年間(11C)に、一禅   僧によって言い出されたことでないか。無量寿経のように梵文原典のあるインド仏教からの思想ではないのではないか。
   論ずるに足りない。ましてや、「仏にも三不能がある」などと、面白げに、単なる仏典博学の断片的知識をひけらかすようなことは謹むべきである。

【出典】大正新脩大蔵経・SAT、国訳一切経、
  仏教大辞彙、聞法ノート(淨厳20190228)
【キーワード】仏 不能 定業 無縁 衆生海    必然 業道 

【参考】「『景徳伝灯録』を読む(続)」
  佐野公治(名古屋大学名誉教授・文博…中国哲学・近世儒学・禅仏教):名古屋大学中国哲学論集 8巻(2009) 所載の記事
1.嵩嶽元珪(644~716=開元四年七十三歳)
   三十九歳で具足戒…閑居寺に僧名登録するも、開悟することなく、嵩山少林寺の慧安 国師に就いて仏教の奥旨を頓悟し、印可を得た。達磨禅の五祖弘忍から心要
   を得たとして、法系としては弘忍の旁出第二世とされているが、達磨禅からの法系は明かでない。塔銘に「師無く自ら悟り」とあるように、独自の禅の道を歩んだのが特徴。
2.嵩嶽神 古くから中国では、天地、山川湖沼には神霊が宿っているとされる。五山の一つ嵩嶽の山神が「嵩嶽神」…偉容を備え、多くの従者を連れて元珪の許を訪ね、禅師   の仏教思想に信服し、五戒を受ける過程で、禅師が「仏の三不能」に言及する。(取意)
3.結び 嵩嶽元珪禅師と嵩山の嶽神の話は、祖師禅師の思想と事跡を伝える『伝灯録』に収めることから言って、在俗者を仏教世界に導入信させた元珪の教化事績として書    いてあるが、その筋書きと諧謔を含む語りの内容には、ひとつの物語、仏教説話とみるに相応しい特徴を持っていると言えるであろう。