RI 私の回心体験 (西光義敞)

  結核と『仏敵』との出会い
 私が結核にかかり安静度第一度の安静療法を強いられるようになってから、本も読むなと言われていました。ある日のこと、寺の住職ばかり集まる会合がありまして、私が行けないので弟が代わりに行ってくれて、私の枕もとで会議の内容を報告してくれました。
 その弟が会議の資料と薄い本を一冊置いていったので、その本を見ますと、その本はいまは手に入らないでしょうが『信心群像』という本だったのです。昭和二十年代中ごろですから、お租末な紙の厚さ一センチくらいの薄い本です。繰って見ると、信心を慶ぶ人たちの実に生き生きとした体験を集めた本でした。
 どのようにしてお念仏を慶ぶようになったかという体験談が語られているが、不思議に
も多くの人が伊藤康善師の『仏敵』(二〇〇三年、春秋社より復刊)を読んでからと仰っしゃつている。『仏敵』を読んで、いままで聴聞の仕方を誤っていた、仏法を習慣的惰性でしか開いていなかったと驚きが本当に立つようになった、それから懸命に開法に励むようになったと、書いておられる。
 『仏敵』、変わった書名だと思ったときに、はて、どこかで聞いた憶えがあるぞ、あ、思い出した。それは昭和二十年の初めのことです。父親が大学にいましたから、いよいよ戦争も激しくなって学徒出陣でほとんどの学生は出払ってしまい、大学が閉鎖されることになりました。それで京都の自宅を引き払って山奥の寺へ帰るとき、たくさんあった書物を処分した。私が手伝って持ち帰るか処分するかの振り分けを父と共にしていたとき、確かに『仏敵』という本を手にした憶えがある。この本はどうするかと聞いたときに、それは要らないということでしたが、この本は面白そうだと思って持ち帰るほうに確かに入れた憶えがある、だからこの家のどこかにあるはずだと、家族のいない間に古本の中を探したら、あったあつた。
 そのような出会いで読むのですから、体に染み入るように入ってくる。伊藤康善、このかたはかつて龍谷大学教授をしておられた高千穂徹乗先生と同じくらいの年齢で、すでにお亡くなりになりました。すぐれた文学的才能をおもちのかたで、自分の青春時代の求道の体験記録を小説風に綴っておられる。「仏敵」というのは、私の中に仏敵が住んでいるということです。伊藤康善師は真宗の信体験もはっきりしているうえに宗学もやったかたですから、真宗学者としても一流の人だと思います。伊藤康善という先生は輿正派のかた
くあたり絶妙なので、体験も学問も兼ねそなえたすばらしいかたであるのに、本願寺派にも大谷派にもあまり知られずに終わっています。
 もう一つ注目すべきことは、このかたは二十歳代で『真宗安心調べ』という本を出しています。これは当時真宗界の一流の方々を次々取り上げて、格好いいけど不徹底だとか、この辺はおかしいとか、またこれはいまどうなっているのか等々、おもしろおかしく、しかもポイントを押さえて批判したユニークな本なのです。さっと追って、すっと引いていくあたり絶妙です。非常にユーモラスな文体で、しかも要のところは外していない。いま読んでも、このような文章を二十代三十代の人が書けるだろうかと感心するような鋭い切り口で書いておられる。
 この『安心調べ』を書いたために、伊藤先生はずいぶんあちらこちらからにらまれたようです。定評ある真宗界の著名人を若僧が評論したからでしょうが、大正デモクラシーの影響を受けた人で、筆がのびのびしています。このようなかたが昭和期の初めにいたということを、私はもっと重視したいと思っています。
 とにかく人の真宗理解を論評批判するだけではなく、その根拠になっている自分の開法求道、獲信体験を告白物語風に書いたのが『仏敵』なのです。伊藤先生を入信に導いたのは、宗学研究もさることながら、在家の篤信者たちであることに心ひかれるものがあります。
 一般に真宗の学習を教養レベルの勉強から入っていくと、だんだん頭でっかちになっていく傾向があります。実感から遠いところで二種深信とか、自力他力はどうだとか、論理を観念的にこねまわす学者になりかねない。だから、理屈はさておいて「あなたの領解はどうか」と問われたら、黙り込んでしまう。真宗においては学問も大事だけれども、学問だけでは、他力回向の信心を各人が正しくいただくことに焦点を絞っていくようにはなりにくい。だから大学の仏教研究には問題があると私には思えますが、それは余計なことですね。
 それはさておいて、習慣的、惰性的、自己満足的な信仰に安住していた浄土真宗のかたで、『仏敵』を読んでこれではダメだと求め直し、聞き直したという人は多いようです。
私の場合もこの本を読んでいるうちに、次第に胸騒ぎがしてまいりました。普通の信仰の書というのは、読んでいるうちに、良いことが書いてある、ありがたい言葉が書いてある、このような言葉は好きだなどと、読めば読むほど心の滋養になる、そういう感じでしょう。
つまり自分の心に副うものは、ああこれは面白い、ありがたいと受け取るという感じで、「ありがたや」を育てる本が多いと思うのです。
 でもこの本は違った。それは自分のもっているもの、慶んでいるもの、そういうものを次から次へもぎ取っていくような気持ちの悪い本だったのです。
 何でもない在家のお婆ちゃんが、「あんたの心の中には説教師が住んでいませんか。それでこれでよろしいでしょうか、それで良い、それで良い、という対話をくり返していませんか。これで私の信心は良いのでしょうか、否、そのまま、そのまま、それがお他力だよ、というような問答を心の中でくり返していませんか。そのような信仰は浄土真宗の信心でも何でもない、それを自力というのだ」と語る場面が出てきます。
 いままでの「慶んでいます」というのはどのように慶んでいたのかと、自分を問い直さずにはおられなくなつたのです。決定的だったのは、在家のお婆さんが伊藤康善先生にちらっと言われたという言葉でした。ある布教使が高座に登るなり、「余計なことは言わない、当流には捨てものと、拾いものがある、これがわからなかったら、千座万座お説教を聞いてもダメ」と言って高座を下りたというのです。昔はそのようなすごい布教使がいたのです。
 この言葉が私にも突き刺さりました。「捨てものと拾いものとは、どういうことか」と自問してもさっぱり答えが出ないんです。曲がりなりにも大乗仏教の研究を数年間やってきたその知識を総動員し、いままで聞いてきた浄土真宗のみ教えを総動員して自分の心の中を叩いてみても、何が捨てものやら何が拾いものやら、かいもくわからない。この要の一点がわからなかったら、浄土真宗がわかったことにならない。

   私の回心体験
 私は浄土真宗も仏教も、体験的にといいますか、この身に何もわかっていなかったのだと気づいたとたん、結核で満天の星が落ちたとき以上の絶望体験、暗黒の闇の古井戸に落ちこむような思いがしました。ここのところは私はあまり言葉にしたくないんですが、分別のレベルを超えて、私の体そのものが全部真っ黒になつてしまった。けれども一瞬、「地獄は一定すみかぞかし」という『歎異抄』の言葉が頭に閃くとともに、自分ではどうしてみようもない、暗黒の身になつた。それと、光が差し込むのと一つでありました。そういう求めても考えてもみなかった世界が私に開けてきた。これが私の人生に決定的な影響を与えたというように私は思います。
 それが何であったのか、それは一時の精神の異常現象であると人はとるかも知れないし、神秘的・霊感的な心理的体験だと言うかもしれません。が、そう理解されることが私には嫌なんです。それは私にとっては決定的に大事なことと思うのですが、私はこのような体験をしたということはあまり言いたくないのです。本願寺派ではとくにそういうことに警戒的なので、口にしません。それは私には非常によくわかるのです。私がこのように体験したとか、このような体験を慶ぶとか慶ばないとか、そのようなところで自慢したり誇ったり議論するというような心理的次元を、お念仏の信心は超えているからです。しかし私自身にとっては、このことがなかったら私は浄土真宗に遇い得なかったのではないかと思うくらいに、大事なことなのです。
 そこから開けてくる世界は、私にとっては大事というのか、不思議というのか、たとえばいままでわからなかったお聖教の言葉が本当によくわかるようになりました。みなさんにはあまりなじみはないかも知れませんが、蓮如上人の『御文章』の初めのほうにある、
  うれしさを昔はそでにつつみけり 
      今宵は身にも余りぬるかな
というあの歌が、わがことのようによくわかります。「嬉しさをそでに包む」というのは、浄土真宗のおみのりを聞いて、確かに慶んでは.いるのだけれども、何が雑行自力で、何が正行他力であるか、正雑の分別廃立がつかないままに、ごちゃごちゃにして慶んでいた段階の心境をたとえています。
 「今宵は身にも余る」というのは自力・他力がハッキリとしたということです。正雑の廃立がハッキリした他力の念仏が初めていただけたときのうれしさは、まさに「今宵は身にも余りぬるかな」という感じで、体を超えあふれてゆく感じです。この実感は「そでに包む」という表現になる感じとは質が違うと思うのです。
 親鸞聖人のご和讃を見ましても、たとえば「功徳は十方にみちたまふ」というのは、個人的な身を超えてゆくような、外に向かって広がり満ちあふれていくような、そういう大らかな体験だと味わえます。体験は人間のもつ体験だとすると、人間を超えてゆくような心境を表現するのに、体験という言葉はある意味では誤解を招くかも知れません。だからできたら使いたくない。目覚め・自覚という言葉を使われるかたもあり、そのほうが良いと思いますが、下手をすると今度はそれは自力だということになる。
 言葉の世界で明らかにすることはむずかしいのですが、つまり自分を超えた、自分の中をどのように探してみてもない大きな力が具体的に私を通して現れてくる世界がある。それが他力回向のご本願で、浄土真宗の本意はそこにあります。
         
(出典 西光義敞『わが信心 わが仏道』(法蔵    館2004年)22~29頁
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