RI 浄土にかえる
                 
1)「還」と「帰」 
  令和2年6月の掲示法語ハガキに
 「死んだら 天国ではなく お浄土へかえるんだよ」
        16歳男子の祖母
 という言葉を上段に書き、下段の解説に「真宗門徒であるならば、『死んだらお 浄土へ還る』が正しいのです」と書きましたが、法友から忠告を受けたご縁で「帰る」と訂正しました(HP上で)。その理由は以下のとおりです。

「還」の用法
① 「還る」では、元々いたお浄土へ還るという意味になる。親鸞聖人も法然聖人の場合だけ「浄土に還帰せしめけり」と「還」を使われているが、それは「阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけり 化縁すでにつきぬれば 浄土にかえりたまひにき」と和讃されているように、恩師法然聖人は阿弥陀仏の化身としてお浄土から来られたのが、このたびそのご縁が尽きてお浄土に「かえり(還り)」たまうたという意味で「還」の字を遣われているのです。
② 同じような用字が児玉暁洋師の著書にもみられます。
「蓮如上人は・・・命終・還浄された」(『蓮如上人行実』大谷派教学研究所)
  「暁烏 敏先生がお浄土にお還(かえ)還(かえ)  りになりました。」(『児玉暁洋選集』❷  420p.)
③ 親鸞聖人が御入滅になられたという京都の角の坊に「還浄」という扁額があります。
・・・以上はみな浄土からこの世に還相されたというべき高僧方だから「浄土に還える」(還浄)と言われている訳です。
・・・それに対して

「帰」の用法 を見てみます。
④ 「念仏のひとを摂取して 浄土に帰せしむるなり」(勢至和讃)
⑤ 「ゆめゆめ回心して帰去来(いざいなん)。借問ふ。家郷はいづれの処にかある。極楽の池のうち七宝の台なり。(173p.)
⑥ 「仏に従ひて逍遥して自然に帰す。自然はすなはちこれ弥陀の国なり。」(法事讃)
⑦ 「仏に従ひて本家に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の行願自然に成ず。(法事讃411p.) <※NB:ここでは、帰=還 の用語法>
⑧ 「帰於浄土」といふは、念仏の人〔を〕摂め取りて浄土に帰せしむとのたまへるなりと。(尊號真像銘文/ 650p.)」
⑨ (私たちが・・・)清澤先生や・・・十方諸仏がお待ちになっているお浄土へ帰っていく」(『児玉暁洋選集』❷450p.)
・・・(普通の人の場合は「浄土に帰る」と表現されています。
・・・上記⑦※では、帰=還 同じように使ってあるが、字の意味に違いがあるのでしょうか。辞典(『漢和中辞典』)でみると:

「還」と「帰」 字義の違い
 「還」=往の反、行った先から回っても  との所にかえること「還元」(還幸、還暦)
    参考:「還相回向(げんそうえこう)」=浄土に往生するはたらき(往相回向(おうそうえこう))と、また娑婆に還ってきて衆生を救うはたらきを
        如来からたまわること。
「帰」=もと出た所に帰って落ち着くこと「帰省」(帰郷、帰結、帰宅)
    参考:「帰命の帰に〝帰説(キエツ/キサイ)〟(よりたのむ/よりかかる) の意味がある」と親鸞聖人は字義を調べられ、「帰命は本願招
        喚の勅命なり」と帰結された。)
※辞書では、「還帰」「帰還」という熟語もあり、上の⑦のように、どちらも「かえる」意味に使う場合もありますが、基本的には、浄土へ往くときは「浄土に帰る」、還相のときは「浄土から娑婆に還る」、そして娑婆での還相の縁が尽きたときは「浄土に還る」という文字の遣い分けが妥当かと思います。
・・・ それで標題の「お浄土にかえる」は「浄土に帰る」と訂正した次第です。

・・・ところで、「還」「帰」の文字の問題でなく、
「浄土にかえる」とは「元々浄土にいたという」前提か?
 という論難がある。
 「無始以来流転してきた」「生死の苦海をひさ しく沈」んで来た者が、このたび遇い難い弘 誓の船に乗せられて、初めて浄土に往生させ ていただける、この仏恩深く報ずべしと教え られてきた。浄土往生・即成仏と習ってきた。
それがいま、「元いた浄土にかえる」とは何事だ!とのお叱りが聞こえそうです。

・・・・しかし、調べてみると「浄土にかえる」 という思想は宗祖の著述の中に何カ所も見られます。すでに上記④~⑧の5文があり、さらに次の
⑩が重要です。

 法性のみやこへかへる 
⑩ 「来迎」といふは、➊「来」は浄土へきたら しむといふ。これすなわち若不生者のちかひ をあらはす御のりなり。穢土をすてゝ真実報 土にきたらしむとなり。すなわち他力をあら はす御(み)ことなり。また❷「来」はかへるとい ふ。かへるといふは、願海にいりぬるにより てかならず大涅槃にいたるを法性のみやこへ かへるとまふすなり。❸法性のみやこといふ は、法身とまふす如来のさとりを自然にひら くときを、みやこへかへるといふなり。これ を真如実相を証すともまふす、無為法身とも いふ、滅度にいたるともいふ、法性の常楽を 証すともまふすなり。❹このさとりをうれば、 すなわち大慈大悲きわまりて、生死海にかへりいりてよろづの有情をたすくるを、普賢の 徳に帰せしむとまふす。  ❺この利益にお もむくを来といふ。これを法性のみやこへかへるとまふすなり。 
(親鸞聖人 唯信鈔文意〈西『聖典』702〉〈東『聖典』549〉〈番号、下線は筆者〉
・・・整理すると: 「来迎」の意味から
➊「来」とは、浄土に生まれさせずにはおかないという本願力他力によって、穢土から真実報土に来させるという意味である。
❷「来」にはまた、「かへる」の意味もある。本願の海に入ったことによりかならずおおいなるさとり(大般涅槃)に至ることを「法性の都へかえる」というのである。
❸「法性の都」とは、法身という色も形もない如来のさとりを開くことをいう。(弥陀同体のさとりを得ること。)法性とは真如実相であり、無為法身であり、滅度であり、法性之常楽(我淨)である。
❹この法性のさとりを得れば、大いなる慈悲 の心が極まり、再び迷いの世界に還り入っ て、あらゆるものを救うのである。これを 普賢の徳を得るという。(還相回向)
❺このような➊~❸の往相回向と❹の還相回向の両益を得ることを「来」といい「法性のみやこへかえる」と親鸞聖人はいわれている。

・・・上記「法性のみやこにかえる」一文の内容は、「かえる」(帰/還)の文字・表現の問題というより、もっと重大な真宗教学の根幹に触れる問題をはらんでいる。浄土とは何か、往生とは何か、得涅槃とは何か、法性とは何か、往相とは何か、還相との関係はどうか・・・等々。今、この小文で軽々に論じることはできない。
・・・ただ、言えることは、正信偈で「得至蓮華蔵世界 即証真如法性身」といわれているように、「浄土(蓮華蔵世界)に至れば、すぐさま仏のさとりそのもの(真如法性身)を証する(一体になる)」ということを「かえる」ことだと宗祖は領解されている。
 つまり、我々凡愚も本来は如来の法性と一つであるのに、妄想顛倒のために今迷っている。それを本願招喚の喚び声で目覚ませ、南無阿弥陀仏で浄土に来させて、法性のみやこへ「かえら」せてくださる・・・という意味であろうと窺う。
 すると、次の和讃が思いだされる。
 「罪業もとよりかたちなし  妄想顛倒のなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき」(悲歎述懐和讃)
・・・浅薄な思いつきかも知れないが、「法性にかへる」ということばと「本覚思想」とは、関係があるのか。少なくとも「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(御消息)といわれている親鸞聖人だから、「法性へかへる」ことは「大乗の中の至極」と思われていたのではなかろうか? と愚測する次第です。

 「浄土へかえる」と説いている聖典、法話など 
   上記のように親鸞聖人にして「浄土へか  える」思想の原点があるので、浄土真宗の
  聖典や、法話などにそういう思想・文言が  あるのは不思議ではない。以下、気付いた  ものを列挙する。
⑴ 帰命の義も またかくのことし。しらざる  ときのいのちも阿弥陀の御いのちなりけれ  ども、いとけなきときはしらず、すこしこ  ざかしく自力になりて、わがいのちとおも  ひたらんおり、善知識、もとの阿弥陀のい  のちへ帰せよとをしふるをきゝて、帰命無  量寿覚しつれば、わがいのちすなはち無量  寿なりと信ずるなり。かくのごとく帰命す  るを正念をうとは釈するなり。すでに帰命  して正念をえたらんものは、たとひ枷(か  せ)重くして、この帰命ののち無記になる  とも往生すべし。(安心決定鈔末21)
⑵ ○無量寿の国より生まれて無量寿の弥陀の    み国に帰る我なり 南無阿弥陀仏          藤原正遠『み運びのまま』24p.
○見つかった、見つかった。親の世界が見つかった。浄土の世界が見つかった。阿弥陀さまのふところのまん中にいる私が見つかった。親のふところから生まれ出て、親のふところに私は帰る。宇宙一切が阿弥陀様のふところだ。
  藤原正遠『百花みな香りあるごと』21 ⑶ 私がガンになり、父母が亡くなったという  ことは、世間からみれば、不幸つづきとい  うことで、皆さんが気づかい慰めて下さる  のですが、私にとっては悲しさとは別の充  足感がありました。別離の悲しみは勿論あ  りましたが、それに増して父母が還ってい  った大いなる生命(いのち)の故郷、ふる  さとに、電気がポッとついた感じで「いつ  でも還っておいで、待っているよ」という  声が聞こえて、木をみても山をみても、雲  をみてもその息がきこえると、不思議な世  界に今います。いろいろなものに護られて  いるという充実感で一杯です。いつかまた  父母と一緒になって大地の中を旅するのだ。  父母が亡くなったという悲しみよりも、私  のために故郷(ふるさと)に灯をつけに還ってくれたの  だと思われて、父母の死は感謝の死でした。
     鈴木章子『癌告知のあとで』31p.
 ⑷ 「還浄」論議に寄せて
     浄土真宗本願寺派淨福寺住職 松井順嗣
 一、「還浄」論議の発端
  現在、本誌上にて話し合われている「還浄」 論議の発端は既に衆知の通り、葬儀式における 「忌中」札の廃止への働き掛けから起こってい る。
  宗教はそれぞれに特色・特徴を備えていて、 他の宗教との相違点を明瞭にすることに依って 自己の教えを一層明瞭にすることが可能で有  る。
  浄土真宗もその教えの上に、他の仏教諸宗派 とは異なる特徴を多く有している。
  今、ここで論じられている「忌中」札の廃止 への働きかけも、本宗の特色の一つとして、教 えそのものに「ものを忌む」と言うことをしな い事が明瞭にされている点が起こりで有る。(中略)
 しかし今はいたずらに論点を広げ過ぎること は論議の焦点が定まりにくくなるので、この  「還浄」論議に限って論を進めたい。
「還浄」の問題が浮上して来た発端は、先に述 べる如く葬儀の際に玄関等に貼られる「忌中」 札が、真宗の教えの上から妥当では無いとの考 えから起こった、極く純粋な発想から派生した 取り組みと考えられる。
  即ち、この還浄の問題は本来は真宗教義に沿 った「習俗の改め」と言う点が発端では有った のだが、残念ながらその解決のための取り組み 方法として用いた「還浄」札の普及と言う方法 は、真宗教義の立場から考えると些か間違いが 有ったこともまた否めない事実で有る。(中略)
そこで、「還浄」問題への取り組みは本来「習 俗」の問題点を改めようとして派生した活動で は有ったのだが、残念ながらその方法に真宗教 義から考えると問題が有ったために今回の一連 の論議が派生するもといとなったと言えるだろ う。
  然し乍ら、最も大きな問題点は、その「還浄」 の文言を宗門が公式の文書に用いた事に依っ  て、一気に「習俗」の問題から「教義」の問題 へとその基盤が移った事が大きな展開として窺 える。(後略)

 最後に
 長々書いてきましたが、結論としては、標記の 〝祖母のことば〟「お浄土にかえる」はそのま まにしたい。ただ、「かえる」に漢字を当てれ ば「帰る」としたいと思います。
 (因みに、SATで『大蔵経』を検索すると
 「還浄」という連語は242件出るが「還浄土」  は1件のみ(『樂邦文類』中:「吾二十三日。  當還淨土」)。
「帰淨」は210件で、殆んどが「帰浄土」 であ  る。)我々凡夫は「浄土に帰る」という表記  にいたします。
 そしてその「帰浄土」は「法性のみやこへ かえる」という意味ー「即証真如法性身」だと喜び、「念仏成仏是真宗」と大安心をしたいと思っている次第です。
思わぬ学びをさせていただいた「ご批判」に深く感謝申しあげます。
令和2年6月6日記
(出典 聞法ノート)
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