RI 道元と称名

☆道元の『正法眼蔵辨道話』に、口称念仏を批判してこう出ている。

「又、読経・念仏等のつとめにうるところの功徳を、なんぢ、しるやいなや。ただ、したをうごかし、こえをあぐるを、仏事功徳とおもへる、いとはかなし。仏法に擬するに、うたたとほく、いよいよはるかなり。又、経書をひらくことは、ほとけ、頓・漸修行の儀則ををしへおけるを、あきらめしり、教のごとく修行すれば、かならず証をとらしめむ、となり。いたづらに思量念度をつひやして、菩提をうる功徳に擬せん、とにはあらぬなり。おろかに千万誦の口業をしきりにして、仏道にいたらむとするは、なほこれ、ながえをきたにして、越にむかはむ、とおもはんがごとし。又、円孔に方木をいれんとせん、とおなじ。文をみながら、修するみちにくらき、それ、医方をみる人の、合薬をわすれん、なにの益かあらん。口声をひまなくせる、春の田のかへるの、昼夜になくがごとし、つひに又、益なし。」 『弁道話』

◇「道元禅師が批判されたのは、「ただ」は「徒(いたず)らに」口を動かして念仏を繰り返しているだけでは、救われないということ。
  親鸞聖人の「唯」(極重悪人唯称仏)・・・
  機の自覚の上には、念仏の法しか救いはないと信じての念仏とは違う。(松扉哲雄師の法話 取意)

○しかも、道元自身にも「口称念仏」があった。
 『永平傘松道詠集』
   草の庵にねてもさめてもまふすこと 
     南無釋迦牟尼佛あはれひ玉へ
    (草の庵にねてもさめても申す事南無釈迦牟  尼佛憐み給え)
※(参考に・・・良寛の歌)
   草の庵にねてもさめてもまふすこと 
      南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

◎要は、「本願を信じ念仏を申さば」この罪業深 い煩悩具足の私が「仏になる」と頂く(信じて念仏する)ことに尽きる。良寛の信もそこにあったのであろう。禅(只管打坐)も体  解すれば唯念仏(唯念仏のみぞまことにておわします)に通じるといえるのではないか。
 
(出典 聞法ノート 310223)
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