RI 華光会 伊藤康善

浄土真宗華光会を拓いた伊藤 康善(いとうこうぜん、1897年9月9日 - 1969年1月9日)は、奈良県北葛城郡新庄町生まれの宗教家。浄土真宗華光会の創始者、真宗興正派学頭。その著『仏敵』についての基本資料を記す。

1)伊藤康善(K)の略歴
  1897年 - 奈良県新庄町の真宗興正派當専寺    に生まれる。
  1921年 - 仏教大学(現・龍谷大学)卒業、    真宗宣伝協会入社
  1929年 - 真宗公論社主筆に就任、「真宗公    論」(後の興正派機関紙)を発刊
  1942年 - 華光社を設立。当初は信仰雑誌「華    光」の誌友の集まりであった。
  1946年 - この頃より龍谷大学生、京都女子    専門学校生を対象とした布教活動を開    始。
  1958年 - 浄土真宗華光会を宗教法人化
  1969年 - 死去、行年71歳。
2)著書
  『求道物語 仏敵』(華光会)1918
  『善き知識を求めて』(華光会)1926
  『我らの求道時代』(華光会)
  『教界諸氏 安心調べ』(華光会)
  『化生の世界』(華光会)
  『死を凝視して』(華光会)
  『仏教詩歌集』(華光会)
  『悟痰録』(華光会)

3)『仏敵』梗概
 ㊀田舎の念仏者
・龍大2年春休み 求道に不安 退学?
・母の勧め 野口の庵寺の念仏者(信者多数)堀尾およしさん(O)(重病)を訪ね、教を聞く
  ・K: 自力と他力の水際は?
   O:神「正直で来い」 諸仏「善人になって来い」 しかし 阿弥陀「悪人目がけて救う」
   K:その安心(あんじん)ができない。     
O:信心を得た無我な同行に聞きなさい。
O:➊捨てるもの ⅰ「煩悩を断じて…」は自力心 ∵煩悩は生涯治らない
    如来の本願をとやかく計らうのは自力疑心=恐ろしい仏敵 
  ❷拾うもの 自力疑心に行き詰まった時現れる如来さまご回向の南無の心・他力信心の喜び
K:(そういう予定救済の話は聞き飽きた。)もう帰る。
O:僧侶として不浄説法は不可。早くご信心をもらいや。
・帰寺すると、「O危篤」の飛脚。戻る。

 ㊁法喜に輝く人びと
およしさん見舞いの人々 それぞれに法談をする
「Oさんがいなければ、私らはみな信者顔して地獄へ落ちる身であった」

㊂学園を乱すもの
・この冬学友北村が信仰問題で学園を去った!

㊃火中の清蓮華
・O見舞いの信者 信心開発の思い出話をする者、新たに開発する者もいる

㊄信疑の白兵戦・・・熱心な信者U氏と
・K:ご信心をいただくまでは断じて不浄説法はしません。還俗したい!
 U:あなたは平気な顔をして、仏様の頭の上であぐらをかいている仏敵
   ではないか!
 K:いかにも私は仏敵です!
 U:一大事の後生は?臨終を今に取り詰めて考えてみればどうです!
 K:(私は死よりも生命を怖れる。)まだ後生は苦になりません。
 U:入る息は出る息をまたぬほどの大無常が迫っているのに?
 K:(私は厳然と不動の姿勢になったまま、真剣に我が心を凝視した!)
 U:(自己の入信物語をする) 

㊅ 不可思議光の諦聴
  疲れて夜具に 本堂で騒ぎ 一人の女の入信への示談の声 
  「そのまま来いよ、引き受けるぞよ」・・・
  (あぁ、私への喚び声だ!)夜具の中で合掌。「如来様!この私をお救いください!
 翌朝、洗顔 仏前に端座 金仏より「水流光明」 心から晴れ晴れ(内心)
・某女:「あなたの顔は晴れ晴れ 何かいいことでも?」
K:ありました!(昨夜の不思議を話す)
U:(瀕死のOの枕元で)Oさん!当専寺の坊ちゃんがご信心をいただいてくれましたぜ・・・・
★Oさんはこの夕暮れに往生された。

㊆光号の因縁
  極楽に往生するには、南無阿弥陀仏(因)と光明(縁)が和合する必要がある。さらに、
  たとえ口に念仏を称えていたとしても、衆生の中に阿弥陀仏から頂いた他力信心が無ければ、
  浄土往生は叶わない。他力信心を内因とし、南無阿弥陀仏と光明を外縁として、極楽往生するのである。
   伊藤は自身のことを、久遠の昔から罪業の塊であり、自力迷心の牢獄に閉じ込められてきたと表現する。
  しかし、堀尾の死を通じて同行と関わったことで宿善が開けてきた。そして長年の牢獄の一角が破れ、光明が
  流れこんで来たというのである〈56〉。  

   そのことで伊藤は過度に感激し、真っ黒な罪業の塊も忘れて、自身を光明で輝く人間であるとすら思い始めていたのである。

  しかしここまででは、浄土に生まれるべき縁は出来ても、肝心の因が足りない。所生の縁は成熟して、二つの不思議な体験をした
  ものの、自分には他力信心が抜けていた、と伊藤は分析する〈57〉。

   しかしある同行の話を聞いてから、伊藤の信心は揺らぎ始める。これが本物の他力信心であればよいが、間違いであればどうしたらよい
  のか? 単なる一時の感激であればどうしたらよかろうか? という思いが伊藤を悩ませ始めたのである〈59〉。
   それは真剣な求道者であるからこそ感じる心でもあった。ある老人がこんな話を始めた。

  「私の家の孫はまだ七つ位だのに、安く信を戴きましたが、親戚の人が來て「彌陀をたのむ一念」の所を知らせて見ろ!と言はれた時に、
  即座に五體を地に投げて、につこりと微笑んでゐました」(『仏敵』一六  四頁)

   この話を聞いた伊藤は、不審が立った。無我になって喜べず、とてもこの子供のような大胆な解答は出来ないと感じ出した。
  植島やゑが獲信するまで四十年かかったという話を聞いて、益々自分の信心が浅いものに思われてきた。伊藤は自分が他力信心を頂いたと思っ  ていたが、余りにも簡単に頂いたように思えてきた。疑いは急激に大きくなっていった〈60〉。
   
㊇深信の徹底
  翌朝、おやえ(Y)さんが言う。
・Y:あなたは、つまりませんぜ! つまりませんぜ!
 K:(刹那の大暗黒界・大無常が、眼前に展開されてきた。この黒暗地獄を前にして、よくもおれは人を教化するなどという高慢な心を起こして   いたぞ!こんな黒い心をもっていたのだ!
     私は生まれて初めて後生の一大事ということを知った。)
・お朝事 正信偈を読む
  リンを鳴らして「帰命無・・・」とまで言った」私は、そのまま仏前にどっと泣き倒れてしまった・・・
  おお!徳号の慈父は露堂堂として現れとす!
・同行:えらいことをしなすったなぁ!
    (皆で正信偈を読誦)
    (阿古様が御文章を拝読していた)
・おばさん:そのままやぜ!そのままやぜ!
・阿古:本願の実機が知れたのです。

★意識を回復した伊藤は、植島やゑから「その儘やぜ」という言葉をかけられる〈68〉。
 その言葉の意味を考えていた伊藤は、非常な歓喜に包まれている自己を発見する。

 併し私は急に身體を悶え始めた。熱い! 胸が張り裂ける樣に熱い! 心臓に火の玉を燃して居る樣に熱い! 鋭利な刄で肋骨を搔き破つて終ひ度い位に熱い! 私は首を夜具の外へ突き出して氣を轉じようとするかの如く、深呼吸をして薄暗い天井裏を眺めた―――やつと胸中の炎は静まつた。さうして熱い魂は嚴かに廻轉して、そこに黄金のような强烈な光りを放つてゐるやうである!
 「まだ何か考へることがあるか?」、私は自分の心に自問してみた。
何も考へることはない。考へる頭は麻痺して終つた。今の慟哭で薬風呂に入つたやうな爽快さだ。氣も晴々とした。腕に力こぶが籠る。中學時代に劍道選手として敵を薙ぎ倒した―――あの時のやうな凛々たる力が籠ってゐる。馬鹿! 大聲で叫んでみたいやうだ。 (『仏敵』一八一頁)
 夜具に入った伊藤は、身体に火の玉が燃えるような熱さを感じた。自問自答した伊藤は、自己の信心に対する不審が無くなっていることに気付く。ついに伊藤は信心に対する不安が無くなり、晴れやかな気持ちへと変わった。そして伊藤は、自分の身体に傷がついていることを知る。

 仏前で泣き倒れて慟哭した折、伊藤の身体には多くの傷がついていた。真剣になった余り、無意識に身体を引っ掻いたものであった。植島藤太郎によると、他にも求道中に知らず知らずに傷を作ったり、顔が腫れ上がる者もあるという。

 求道を始めてから獲信するまでの期間も、人によって異なる。求める気持ちも無く偶然に真宗者を訪れ、法を聞いた者が短時間で獲信することもある。一方、五年という長期間をかけた者もあるという。もちろん、死ぬまでに間に合わぬ者もあるのだ。

 私は思つた。佛法は法の威力に依つて廣まるものである。中間の善知識といふものは、月を指さす指として必要であるが、親鸞教が普及した結果、善知識が却て如來の仕事を邪魔してゐるのが教界の現状だ。教へる人が詭辨の信仰で固つてゐると、教へられる者は詭辨を弄することが信仰だと思ふ。教へる人が學者であると、學問的な理窟を並べることが信仰だと思ふ。教へる人が法體募りで、法の有難味ばかり説いて居れば、さう云ふことが信心だと思ふ。又反對に教へる者が罪惡の自覺ばかり言うてゐると惡人と知つたのが信仰だと思ふ。
 其他、念佛に捉はれ、感情に捉はれ、泣いたのが信心であつたり、喜んだのが信心であつたり、行儀の正しいのが信心であつたりするが、何れも根本の眼目を忘れてゐる。さうして人の態度や言葉ばかりを批評する。安心や異安心の問題で騒ぐのは、此の連中だ。
他人から批評されて感情の動搖を感ずるのは、他人の尻をついて歩いてゐるからだ。鶏口となるも牛後となる勿れ!とは甘いことを言つてゐる。 (『仏敵』一八四頁)

 伊藤によると、浄土真宗教界の現状は、阿弥陀仏よりも善知識が目立っているという。伊藤の言う「親鸞教」とは、阿弥陀仏よりも親鸞を大事にしていくような風潮が広まっていることを指す。さらに、教える者によって信仰が変わってくるという。そして、後生の一大事が解決したのかどうか? ということが抜けているというのである。確かにこの指摘は的を得ているように思われる。救済の主体である阿弥陀仏ではなく、その紹介者である親鸞のほうが目立つということは、後生の一大事の解決を考えた場合、本末転倒と言わざるを得ないであろう。

 此の同行達は少くとも鶏口であるが牛後の人ではない。口々に言ふことが違つてゐるが、而も大きな點は如來に統一されてゐる。他の法席では、如來を見ずに善知識ばかりが見えるが、こゝでは知識は見えずに如來ばかりが見える。中心は如來樣で、人間の言葉は單なる發聲器に過ぎない。如來はかうだとか、あゝだとか理窟をこねる人がない丈に、如來樣が全體に輝いてゐる。それ等の言葉に依つて自己を證明され、反省され、沈默の裡に會得する―――私は好い同行の團體を知つたと思つて喜んだ。 (『仏敵』一八五頁)

 野口道場の同行達は口々に表現する言葉は違うが、阿弥陀仏に統一されている、と伊藤はいう。他力信心を獲得しなければ、阿弥陀仏と出遭うことはない。故に真実信心を得ていない同行にとって、大事なのは如來よりも、目に見える善知識となる。一方の野口道場に集まる同行達も、善知識である堀尾のことを敬ってはいる。しかし彼等は阿弥陀仏に直接救われている故、善知識が過剰に権威化されることもなく、中心に阿弥陀仏こそが輝いている。本当にこのような同行に会えて良かったと、伊藤は喜ぶのである。

(出典:伊藤康善『仏敵』1918、久保光雲『近代真宗教学史にみられる獲信解釈の研究』)
【キーワード】宗学 獲信 体験 同行(獲信   経験者) 知識 無常 後生一大事
   光明 名号 縁 因 往生  
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

参考:
 伊藤康善著『善き知識を求めて』(1926)
には、信後の迷いを解決した記録が書かれている。(以下、久保光雲の論文より引用)

伊藤は『仏敵』の元となった信仰記録を読み返してみたが、その当時のような心境になれなかった。そのため、まだ自分には自力疑心が残っているのではないか、と伊藤は危ぶんだ。又、そのことに対する答は宗学には見出せなかった。伊藤は、植島藤太郎と植島やゑに不信を問うことにした。訪ねた先で伊藤は、植島らに次の問いを発した。

「あの時に僕は三毒の心で彌陀をたのんだのでは無いでせうかね、後生が恐くて飛び立つやうになつたのは、三毒の煩惱―――生きたいと焦る自我が、荒れ出したのでは無いでせうか」
「それは大間違です」と植島氏は嚴然と云つた。 (『善き知識を求めて』七一頁)

伊藤は、自分が煩悩の心で阿弥陀仏をたのんだのではないか、と問うた。これに対して植島藤太郎は、明確に否定した。

あれは御廻向の機で彌陀をたのんだのです、三毒の煩惱は欲しい、憎い、可愛いの心で、こんな心の何處を押せば後生が苦になる等といふ殊勝な氣が起りますか。あのやうに無常の大事が痛切に知れるのは、佛の光明に育てられて南無の機が知れて來た證據です。これは如來樣から發願して廻向される心です。
御廻向の機で南無と彌陀をたのむから、即是其行の阿彌陀佛は間髪を容れずに現はれる。 (『善き知識を求めて』七一頁)

植島藤太郎は、煩悩の心においては後生が苦になるような気持ちは起きないという。後生の一大事が痛切に知れるのは、阿弥陀仏の光明に照らされ、衆生の機相が知れてきたからであるという。阿弥陀仏をたのむのは、飽くまでも阿弥陀仏から廻向された心である、と説明する。

落機の知れた南無の心は、阿彌陀佛の救ひの聲に離れたものでなく、阿彌陀佛の救ひは南無の落機と離れたものでない。機法一體の南無阿彌陀佛です。若し此の煩惱の心で彌陀をたのむならば、そのまゝ救ふぞの勅命を、このまゝお助けと返事して受取ることになる。受取つても、その心は刹那に消滅するから、何遍も勅命を聞かなくては安心ならぬのです。これなら機法合體です、彌陀の勅命は呼び切りです、勅命がかゝると同時に生死の迷を切つて貰ふのです、だから南無の心の上に勅命がかゝらぬと大安心にならぬのです」 (『善き知識を求めて』七一~七二頁)

植島藤太郎は、煩悩の心で阿弥陀仏をたのんだ場合は、本願の勅命を受け取ったつもりでもその心は瞬時に消滅するため、繰り返し勅命を聞かなければならなくなるという。これは機法合体であり、機法一体ではないという。この説明を聞いて、伊藤の不審は解けていった。

私の惑ひは薄紙が取れて行つた。
「さうですかね、私はまた自力心で頼んだのではないかと思うてゐた」
「そこはよく同行の聞き間違ひを起すところで、佛智の不思議は凡夫の機功を交へずに、法をとどけて下さるのです、私の方は只地獄行の落機一ぱいで逆謗の死骸になる丈なのです、それも自分から成らうとして成るものでない、南無阿彌陀佛の獨り働きで、落機が知れるのは南無の機がかゝつたのです………仲々この落機といふ奴は、いくら自力で焦つても知れるものぢやありませんからね……」 (『善き知識を求めて』七二頁)

植島藤太郎は、阿弥陀仏の働きによって、衆生の側は逆謗の死骸と知らされるだけなのであるという。植島やゑは、自分の信後の悩みがどうであったか語る。植島やゑも獲信した後に信心について悩んだという。

「坊んち!」とお婆さんが言つた。
「私と一緒に法を知らせに參りませう。さうして法に迷うてゐた人が獲信する時の有樣を見るとよく解ります、自分の信の時は何が何やら解らぬものです、赤ん坊が生れた時を知らぬと同樣で……さう云へば私も信後で迷うて、ずゐ分皆に迷惑をかけたのです」 (『善き知識を求めて』七二~七三頁)

植島やゑは、ともに人々に布教をしていこう、という。自分の獲信体験は客観的に見ることが出来ないので何が起ったか分からないが、他人の場合はよく分かるという。植島やゑも自己の経験した悩みを語る。

「そりや此のお婆さんの入信も激しかつたが、信前に餘り苦しんでゐたので、信後にその病が出て皆が弱つた。一緒に泣いたり喜んだりして居り乍ら私はまだ信を貰うて居りませんと駄々をこねるのです、佛智は届いてあるのだから、勝手に愚痴を言ふが良いと云つて捨てゝ置いたが……」
「いやその頃は皆が充分に法義も知らなかつたので捨てられた私は、非常に弱りました……が時が經つて身體が丈夫になると自然に落着きました、矢張り聽聞不足もあつたし、それに法に熱心な人に限つてよく信後の迷ひも起り勝なものです」 (『善き知識を求めて』七三頁)

植島やゑは、獲信するまでの悩みも激しかったが、信後も同じくらい悩み苦しんだという。仏智は届いているのに、まだ信心を頂いていないと騒ぎ、周りの同行達を困らせていた。その原因のひとつは聴聞不足であったということである。そして、法に熱心な人ほど信後の悩みも起こしやすいものだという。

「とにかく同行學をおやりなさい。人に信を取らせるにはコツがあるから……」 (『善き知識を求めて』七三頁)

この植島藤太郎の台詞に、同行学という言葉が出て来る。同行学とは、布教をして人々に信をとらせ、お互いの信心を語りあうことである。その同行学をすることによって、信後の悩みは自然と収まるというのである。

植島らの説明を聞いて、伊藤は自己の信心の領解が、善導大師の六字釈に合致することを発見した。

 段々話を聞くに隨つて私の氣分も朗かになつた。南無といふは歸命なり、亦これ發願廻向の義なり、阿彌陀佛といふは其の行也といふ六字釋に自分の體驗はピッタリ合つてゐるでないか! この上何を求めて惱むのだ。それに地上に稀な御同行の證誠護念もあるでないか! 
文學や哲學にかぶれ吾々の惱みは、自分の氣分を餘り尊重することだ。如來の本願は、そんな細い神經質の感情の動搖ではない。鐵の如き意志を以て成就された眞理だ。その晩私は久しぶりで一杯飲んで愉快に笑つた。宵に泣いた涙は再び歡喜の涙に濡れてゐた。 (『善き知識を求めて』七三~七四頁)

 伊藤は、自己の信心が聖教と照らし合わせても一致するものであり、また稀で素晴らしい同行に守られていることに気付く。この以上悩むことは無いと思い、文学や哲学にかぶれている自分達のようなものは、自分の気持ちを尊重しすぎる傾向にある、と自己批判をする。そのような感情によって揺れるような本願ではないのだと、伊藤の心は久しぶりに晴れ、歓喜の涙を流すのであった。

このような過程を経て、伊藤の信後の悩みは解決した。以上より、信後の悩みを解決するために、次の事項が挙げられるであろう。

まず宗学を理解した上で、自己の信心が教えに適っているか確認すること。伊藤は樫根との論争過程を経て宗学理解は深まったが、自己の信心と教えが一致せずに悩んでいたのである。そして後に改めて、自己の信心と聖教が一致するものであることを発見したのである。そのために伊藤は、獲信した同行達と交わり、不審を問い、お互いの信心について語り合った。また植島らは、求道者に法を知らせていくことの重要性も指摘している。これを「同行学」という。

現代の真宗教界において、圧倒的に欠けているのがこの同行学であろうと筆者は考える。

久保光雲(くぼ・こううん)