RE 『原爆の子』より(2) 

       高等学校三年(当時小学校六年)
           新庄 了 さんの手記
 そのころB29は、日本全土のほとんどすべての上空を我がもの顔に飛びまわり、片っぱしから灰櫨にしていった。だが当時の*風評によれば、軍需工場の全くない広島市は、風光明媚な水の都として、京都や奈良とともに爆撃はうけないだろうということであった。ああ、神のみぞ知る、新型大量殺戮兵器「原子爆弾」の好条件な投下地点であったとは!
 当時私は六年生として、中島小学校**に通学していた。疎開できなかった学童は、一年生から四年生までは近くの神社やお寺の寺小屋式学校に、五・六年生は中は木造で外見はセメン塗りのモルタル式の中島小学校の講堂の三階で、ただお義理としか思われないような勉強をつづけていた。
 昭和二十年八月六日の朝、警戒警報が鳴りひびいたが、それもすぐ解除になり、その頃の常として馴れっこになっていた私たちは、すぐ登校したのだった。私は南向きの窓ぎわに陣どって、友だちと雑談をはじめたばかりだった。そのとたん、真黄色な閃光がひらめくと、ひきつづいて私は奈落の底に落ちこんでいくような、何ともいえない気持がした。そのことだけは今も憶えている。
 私は気を失っていたのである。どのくらいたったであろうか。何かの器物の間に横たわっている自分の姿に気がついた。その時の私には、この建物が直撃されたのだとしか思われなかった。手を曲げてみると曲る。足を動かしてみると動く。自分はまだ生きているのだと思った。そして何の障害もなく立つことができた。あたりは真暗である。目のごみを払いのけ、うす暗いなかから、先生と友の名を大声で呼びつづけた。やがて同方向に帰る三人の友があっまってきた。その中の一人のNは耳のつけ根から血がふん出している。Nは急に「お母さん」といって泣き出した。当時の私は学校ではリーダー格でなかなか気が強かったので、Nをしっかりしろとはげましながら、HとKをともなって校門を出た。
 校門を百メートルぐらい出たところの家に火がついてもえている。ぼろぼろになった着物をまとった母親らしい人が、背中に子供をおぶって、北の方に向ってにげていく。住吉橋のたもとでは、もうもうとした土けむりの中を、人々が右往左往している。電線はぶっ切れて垂れさがり、瓦はあたりかまわず散乱している。おそらく自分の家なのであろう、その家の前で、ぼんやりとたたずんでいる人。血だるまになって、息もたえだえに道ばたにころがっている五十くらいのおじさん。ぺしゃんこになった家の中から、助けてくれと泣きさけぶ声。このような、生き地獄さながらの有様を目の前にしながら、僕はどうすることもできないのだ。ただひたす
ら自分の家のことばかり考えながら、はだしのままで、道路上に倒れて道をふさいでいる屋根の上をつっ走った。途中で、友の一人一人と別れるにつれて、家を思う心はますます強まるばかりであった。やっと家の玄関にたどりついた。私の声を聞きつけて、母と姉が出てきて僕を見ると、
 「まあ! 頭が……」
と驚きの声を発した。頭に手をやってみると、手にべっとりと血がついた。急いでこわれた洗面所で姉に洗ってもらったが、不思議なことには一つとして傷はなかった。私を驚かせたのは、母の左眼にガーゼがあてられていることだった。しかもその真自なガーゼは、血で真赤に染まっているのだ。僕は母に、
 「母さん、眼をどうしたの」
とたずねた。母は、
 「母さんは片目をなくしてしまったの。でもそれだけで、みんな無事で帰ってくれて、母さんはうれしいの」
と言われた。ああ、何ということだろう。母の慈愛にみちたあの美しい眼の片方は、永久に閉ざされてしまったのだ。母の言葉に、僕は日に涙がにじんできた。父も兄も大けがはしたものの、無事で帰ってきていた。
 僕は黄色なものを吐きつづけるだけで、何も食べたくなかった。それでは身体が弱ってしまぅといって、母はみかんの汁を飲ませてくれたが、それもすぐ吐いてしまった。その夜は家の前の土手に避難して、赤々と燃え上る広島の夜空に不安を感じながら明かした。
 それから幾日かが過ぎた。あの日、中島小学校の講堂の三階で、はしゃぎあっていた友の多くは、そしておたがいに傷ついて、肩をくみ手をつないで校門から逃げだした友の多くは、今はもう亡き人となっていた。僕は亡き友や師の慰霊祭に出かけたりして、うつろなその日その日をおくっていた。
 三階から抛り出された時の打撲症が、その頃になってあらわれ、床につくようになった。それから間もないある日のこと、寝ている枕に髪の毛が数十本も落ちていた。おかしいなと思って髪にさわると、ばらばらと落ちる。僕は頭の毛が永久になくなるのかと思って、悲しくなった。父や兄のやけども悪くなるばかりで、白島の元逓信病院に入院していた。僕たちは父や兄につづいて、家族みんな入院することになった。
 私にとってそれは、何とながい間のつらい病院生活であったろう。注射の嫌いな僕は、泣いて逃げまわった。天井からぶらさげたあの大きな注射管、大きな針、今考えてもぞっとする。白血球は八百に下り、後で聞いたことだが、もう僕の命はながくないものと医師の宣告をうけて、父母は何も知らない僕が望むことは、何でもさせて下さったのだそうだ。しかし三、四回日の白血球の検査では、奇蹟的に八千にまで上り、医師はびっくりされたという。
 私の寝ているまわりには、傷口がくさり、うじ虫のわいた者、火傷の治療で医師がガーゼをはぐたびに泣きわめく六つぐらいの子供がいた。それらの人々が毎日一人二人と死んでいくと、また新しい患者がはいり、それがまた死んでいった。夜になると病院の庭で、それらの死体を焼いていた。その死体を焼く臭いが風にのって、病室の中まで、におってきた。全くの焼け野原になってしまったのか、駅もまるで近くなったように思われた。「ぼーう」と長く尾をひくような汽笛の音が、さびしく、そして真近に聞えてきて、それは亡くなっていく人々の魂が、昇天していく声のようにも思われた。
 六年前のあの悲しい血と涙の思い出を、今さらのように思いかえすにつけて、
 「あの惨劇を、二度と繰りかえすことなかれ!」
と言いたい。
 これこそ原爆をうけて、生きのこった僕たちの、真実の、腹の底からの叫び声ではなかろうか。
 *「フランク委員会の勧告と警告は無視され、  原子爆弾は広島と長崎とに無警告で投下され  た。一般的警告は、これよりさき日本に対し  て発せられており、三十五都市の名を具体的  に挙げて空襲の危険が警告されていた。とこ  ろが人口稠密が原爆投下地として選択理由の  一つとなった広島と長崎とは、この警告から  洩れていた。」(ブラッケット著『恐怖・戦争  ・爆弾』田中慎次郎訳、「七五ページ、法政大  学出版局)
 ** 爆心地より約一キロメートル。

(長田 新編『原爆の子』下 96-101頁)
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