RE 『原爆の子』より
中学三年(当時小学三年)
           田中清子さんの手記
〝私は八月六日が来ると今でも身ぶるいがするのです。・・・ピカ!と光った時、私は遊んでいた家の下敷きになっていました。・・・私は夢中で抜け出し、気絶している一歳の赤ちゃんを背負った母と逃げました。・・・比治山に行く途中、やけどが苦しくて、水槽や池にとびこむ人もいました。道ばたにすわりこんで、「水をかけてくれ」とか、「水をくれ」とか、たのんでいる人もいました。中には、道ばたのきたないどろ水をのんでいる人もいました。・・・少しいくとメガホンでさけんでいる人がいて、似(に)の島に行けという指示で、川から船に乗りました。
 お母さんのすぐ前に、体中にやけどをおい、血を流している私と同じ年くらいの女の子がいて、苦しそうに母親の名ばかりを呼んでいましたが、とつぜん「おばさんの子どもここにいるの」とたずねました。その子はもう目が見えなくなっていたのです。母がおりますと返事をすると、その子は「これ、おばさんの子どもにあげて」と言って、おべんとうを出しました。それは、その子が朝学校に出かける時、その子のお母さんがこしらえてあげたおべんとうでした。
 母が「あんた食べないの?」と聞くと、「私、もうだめ。それをおばさんの子どもに食べさせて」と言い、やがて船が海に出た時、「おばさん、私の名前をいうから、もし私のお母さんにあったら、ここにおるといってね」と言ったかと思うと、もう息をひきとって死んでしまいました。かわいそうで、かわいそうで、お母さんといっしょに泣きました。〟
        
(出典 長田信編『原爆の子』岩波ワイド 上
255~258頁  石川欣也『善正寺だより』
395号に紹介)
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