RE  幼い娘の死に際

 井戸(平左衛門正明(1672~1733)・飢饉のとき甘藷で領民を救った「芋代官」の末期のとき、そ)の治療にあたった錦織玄周は邑智(おおち)都宮内村(島根県美郷町宮内)に生まれた。元禄九(一六九六)年頃に梁瀬村に移り開業医となったらしい。篤信な真宗信者として知られ、近隣の人々に慕われ、あちこちに往診することがあった。子息の泰識(一七一七頃~二七七二年)は波根村(大田市波根町)の立善寺の住職になった。
 玄周が高見村(邑南町高見)に住む友人の石橋寿閑を訪ねた時の話が天明四(「七八四)年頃に成立した仰誓の『妙好人伝』に載っている。

 安永年間(一七七二~二七七九年)、錦織玄周が高見村を訪ねた折、友人の石橋寿閑の家に泊めて貰った。就寝前に玄周がおつとめさせて頂こうと思い仏壇の場所を尋ねると、寿閑はそれを開いて嘲り、「地獄や極楽などというのは、坊主が金を稼ぐために言っているに過ぎない。多くの本を読み、医学を身に着けている自分はそんなものを信じていない」と言う。 これを聞いた玄周は、こんな無信心の人がいるのに、自分は阿弥陀様に救っていただける喜びを知っている分なんと幸せかと思いながら、一人寝室で念仏を唱えた。
 三年後、再び高見村を訪れた玄周は、寿閑の家に泊まるのは気が進まず、少しだけ立ち寄ってあいさつだけで帰ろうと思った。すると、来訪を知った寿閑が飛び出してきて、「是非あがって欲しい」と招き入れた。
 部屋に入ると仏壇があり、その中には年代物の大きな阿弥陀如来像が納められていた。驚いた玄周が「いったい何があったのか」と尋ねると、寿閑は涙を流しながら次のように話してくれた。

 可愛がっていた娘が去年六歳で亡くなった。臨終の際、「おとうさん、私は死んだらどこへいくのでしょうか」と聞いてきた。胸が塞がり、娘の心を安らかにしたいと思って「死んだら極楽という素敵なところへ行く」と話すと、今度は「どうすれば極楽に行くことが出来ますか」と尋ねる。どう答えていいか判らず、つい「手を合わせて南無阿弥陀仏と唱えれば参ることが出来る」と話してやると、「ああ有り難い」と言って、一心に念仏を唱えて亡くなった。
 このことがきっかけとなって、娘のためにもなるだろうと考えて寺参りを始めた。すると、一座、二座と聴聞を重ねていくうちに己の無力さに気付かされ、阿弥陀如来に救っていただける身を喜ぶようになり、仏壇に如来像を納めさせていただくようになった。先年の非礼を許して欲しいと泣いて俄悔した。

 このことを安永八(一七七九)年二月六日、浄泉寺を訪ねてきた友人の貞観が教えてくれた。
 この話に脚色を加えたものが、幕末に刊行された僧純の『妙好人伝』 にも掲載されている。仰誓の『妙好人伝』では、玄周が寿閑の家を訪れたのが安永年間(一七七二~一七七九年)だと記し、僧純の 『妙好人伝』では寛延年間(一七四八~一七五一年)のことだとするが、いずれも玄周が亡くなった後のことだ。恐らく貞観が直接見聞きしたのではなく、誰かからの不確かな伝聞を伝えたのだろう。

        
(出典: 神 英雄「石見の妙好人に学ぶ」『自照同人 83』)
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