RE 聞法を願った母のいのち

 いままで休まず日曜学校に通っていた小学六年生のA太郎が、最近あまりお寺に行っていない。それを父親がとがめて厳しく叱った。「だって友達がみな受験勉強をしている。僕だって・・・」とA太郎は泣きながら抗弁した。中学への試験を受けようとしているのだ。何も遊んでいたのではない。どこが悪い!と、涙が止まらない。「よし、それほどくやしいのなら、どうしてもこれだけは言っておきたい」こう言って父親が話したのはA太郎誕生の秘密だった。
「お前のお母さんが身ごもったとき、家族中が喜こび、帯祝までした。しかし妊娠中毒がひどく、医者は中絶を勧めた。だがお母さんは『私はどうなってもよい。この子を闇に堕としたくはない。この世に生まれさせ、仏法の光りに遇わせたい』そう言いきってお前を産み、間もなく死んでいったのだ。二十二歳だったのだよ。
 日曜学校へ行くこと、仏法に遇うこと、それがお前の亡き母さんの願いだったのだ。わかったか」
 我がいのちにかけられた亡き母の悲願を知って、感動しないではおれない。A太郎がそれからは熱心に仏法を聞くようになったのはいうまでもなく、さらに母のような病気を治す医者になろうと決心した。そして今では大阪の南で立派な産婦人科医院長をつとめ、同時に新しいいのちの母親となる人たちに仏法聴聞の大切さを説く「念仏先生」になっておられるという。(河村とし子師談)

(出典 能登 明円寺で聞いた法話)
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 願われてあるいのち                     藤枝宏壽
         (越前市押田 了慶寺)
「太郎、早く日曜学校にいかんかね」と父が呼ぶが、「はーい」と生返事。二階へ行ってみると太郎は机に向かっている。「何しているんだ、早く行きなさい」「だって、ぼく今6年生。中学校の試験勉強しなけりゃ、友だちに負けてしまう…」と太郎は泣きだす。
「そうか、そこまで思いつめているなら、なぜわしが日曜学校のことを厳しくいうのか言ってやろう。お前の母さんは早く亡くなったが、その訳(わけ)をまだ言っていなかった。母さんがこの家に嫁(とつ)いできて、やがてお腹(なか)に子供ができたのでみんなが喜んだ。帯祝いには、身内が集まり、かかりつけの産婦人科の先生にも来ていただき祝杯をあげた。ところが、2,3日したら、先生が皆さんに来てほしいといわれる。行ったら、『先日はご馳走様でした。このように皆さんがお喜びのときに申し上げるのは大変心苦しいのですが、お腹の赤ちゃんは諦めてください。妊娠中毒がひどく、母体の命が危ないのです』とのこと。一同は顔を見合わせて唖然(あぜん)とする。里のお祖母(ばあ)ちゃんなど、泣き出して『では、わが娘(こ)を助けてください』という。みんなうなだれて、そう決まったかに思えたとき、お前の母さんはキッと顔を上げて『いいえ、私にこの子を産ませてください。私は里の母から、人間は仏法を聞くためにこの世に生まれてきたのだと教えられ、育てられてきました。だから私はお念仏を喜んでおり、私の後生(ごしよう)については、何の心配もありません。しかし、このお腹の中の子はまだ暗闇(くらやみ)にいます。もしこのまま下ろしたら、せっかく頂いた人間のいのちも闇から闇に消えてしまいます。どうか、この子をこの世に生まれさせ、仏法の光に遇わせてやってください。お願いします。』 この真剣な母さんの言葉には誰も反対できず、やがて月日がきてお前は生まれたが、先生が心配したように母さんは亡くなってしまったのだ。
 わかったか、お前には『人間と生まれて仏法を聞いてほしい』という母さんのいのちがけの願いがかかっているのだよ・・・」
 母さんの命がけの願いが僕のいのちにかかっていたとは!出生の秘話を聞いて驚き感動した太郎は、それから熱心に仏法を聞き開き、さらに母の命を奪ったような病気を治す産婦人科の医者になろうと決心し、今は大成して立派な産婦人科医になり、出産した若い母親たちに「生まれ甲斐のある子供さんに育ててくださいよ」と仏法を勧めておられるという。(河村とし子先生の法話より)
 生みの親のない人はいない。どの人にも親の願いがかかっている…「どうか幸せな、実のある人生をおくってくれよ」と願われているに違いない。
 しかし人生はきびしい。人間は一生波乱万(はらんばん)丈(じよう)、あらゆる苦難が待ち受けている。まさに苦悩の一生を送らねばならない。だが、苦悩だけで終わる人生だったら、「生まれ甲斐」はどうなる。結局むなしい人生を過ごさねばならないのではないか?
 この大問題にかけられたのが、実は如来の願い、本願なのである。
「如来(によらい)の作願(さがん)をたづぬれば 苦悩(くのう)の有情(うじよう)を  すてずして 回向(えこう)を首(しゆ)としたまひて 大(だい)  悲心(ひしん)をば成就(じようじゆ)せり」(正像末和讃)
阿弥陀如来は、あらゆる苦悩の衆生を捨ておくことができず、これを救わんという広大な願いを発(おこ)された。それには、如来の力を与えて救うより他に道はないと、大いなる慈悲の心で成就されたのが「南無阿弥陀仏」という名号(みようごう)である。この名号は「あなたを救う仏がここにいるぞ。如来にまかせよ、如来によりたのめ。如来のまことを信じて、念仏申せ、必ずすくう」という如来の喚び声である。
 苦悩に呻吟(しんぎん)する者にとってこの喚び声ほど大きな励ましはないー ただありがたく「ナムアミダブツ」と念仏するのみである。
  願われてあるこのいのちや初念仏 愚石