RE 人に迷惑をかけない  

 高史明氏は、優秀な息子真史(まさふみ)さんが中学一年のとき(12歳)、自死するという衝撃を受け、悲歎にくれました。それから氏の宗教的探究が始まり、遂に親鸞聖人の歎異抄に究極的救いを得られました。
 高氏がその遍歴を振り返っています。

 〝息子が中学生になったときが思 い起こされます。その時は非常に大きい喜びでした。朝鮮人の私と日本人の間に 生まれた一粒種ですからね。ほんとに大事な子供でした。そしてよく育ってくれ ていました。私たちはそう思っておりました。中学生になりました時に、入学式 に付いて行きまして、父親の喜びも味合わせて貰いました。そして、帰って来て、 ささやかなお祝いをしました。その夜、中学生になった、という節目で、その子 に言った言葉があるんです。
 「今日から中学生だ。これからは自分のことは自分で責任を取りなさい。他人に迷惑を掛けないようにしなさい。その二つが出来るならば、
お父 さんはこれから中学生だから〝ああしろ〟〝こうしろ〟ということは一切言わない。
自分の人生だから、自分の責任で生きていきなさい」と言ったんですね。
 よかれと思ってのことです。しかしそこに非常に大きなもの が見落とされておりました。何を見落としていたか。他の生き物は、人間によって対象化されるだけの存在ではなくて、対象化される以前に、人間とともに繋が っている命である、ということが見落とされていた。
    ・・・・・・
  子供の育っていく過程をふり返えると、生きていく姿ばっかりをこっちは追っか けておりました。本が好きでいいなとか、可愛いなあとか、あの子は利口だ。こんな失敗したとか、そういうことばっかり考えておりました。人間が生きている ということは、無数の生き物に支えられということですね。そして無数の人の働 きに・・・それはもう少し広げると、無数の死者によって支えられているという ことです。
  無数の死者によって、人間は支えられている。
  米粒一つにしても、稲から刈り取られまして、米粒にさせられまして、 植物もそうですし、魚にしても、無数の死に支えられている。そして、そういう ことが分からなければ、生というのが実は分からないんだ、と。そのことを、子 育ての過程に、私の意識としてあれば、おそらく中学生になりました時に、これまでにどれだけの人の働きを頂いてきたか、命の繋がりを頂いて生 きてきたか。それをしっかりと知識としても、五感でも頂く。このこと が、本物の自分が成立していく土台です、と言えたと思うんです。
それ が理解出来るのが本物の自分になっていく一番大事なことだ、と。
 そういうふうに言わなければいけなかったんですね。それが全然逆でした。
 「自分のことは自分で責任とっていきなさい」という言い方になっていた。これはしかし私だけの問題ではなくて、気が付いてみると、現代世界の人間の生き方 が全部そうなっていたんではないか。そういうふうになっていたから、さっきの 親鸞の、その子供が死んだ夜に浮かんだ言葉がなかなか頷(うなず)けなかった。それが何年もして論理としては、考えていって分かるようになったけれど、身体的にやはりなかなか頷(うなず)くことが出来なかった。親鸞の教えが身を通して頷けるようになる のは、やはり二十年後位してから、やっと頷くようになってきたんではないかな あ、と思いますね。〟

参考:「親鸞は父母の孝養のためとて一返にても念仏申したることいまだ候はず。そのゆゑは一切の有情はみなもって世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれもこの順次
     生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。

(出典 悲しみとともに生かされて
       作家  高(コ)史 明(サミョン)
             岡  百合子
       ききて 黒 田 あゆみ 
 h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-80.htm)

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  死者(食物)に生かされている現実