RE 母を恨んだ横田死刑囚の場合
四 実母の面影

 人が人を殺めるという究極の行為に及ぶには、よほどの事情がある。
 一見、衝動的に見える行為の裏にもまた、長年蓄積された憤怒の澱(おり)が溜まっている。〝切り裂きジャック″と呼ばれた男のような歪んだ性からくるものもあれば、怨みを晴らすという明確な目的があるものもある。その多くは、彼らを包んだ家族と無線ではない。果たしてそれが正当かどうかは別として、そうやって目的を達成したが故の死刑は自虐的でもある。
 横田和男(仮名)、三四歳。
 渡連にとって横田は、教誨師としての己の力不足を痛感させられたまま厳しい別れ方をすることになるという結末からも、生涯忘れることの出来ない死刑囚のひとりだ。
 (中略) 
 こんな風に気の短い男ではあったが、じっくり付き合うと意外に思いやりのある優しい面も見せた。やはり家族からは緑を切られていたが、たったひとり都内に暮らす叔母が時々、差し入れにやってきた。この日の面接の前日にも高級なチョコレートを差し入れてくれたということで、それを独房から持参して、自分の後に面接に来る死刑囚たちに食わせてやって下さいと預けて帰った。他の死刑囚に食べ物を分けてやるような死刑囚に、渡辺は他にお目にかかったことがない。
 事件の時は、彼があわせ持つ悪い方の気質が前面に出てしまったのだろう。横田に限らず、人生の決定的な瞬間に自分の内にある善と悪、柔と剛、どちらが、どのくらい、どう出るか、そして塀の中に落ちるか外に留まるかは、本当に僅かな運、不運の差だ。暴走を正めることが出来るのは、愛された記憶。そして愛する者の存在でしかない。しかし横田の場合、その愛すべき相手が仇となった。

 横田の良き心を閉じ、乾き切った心に消えぬ炎を焚きつける動機となったのは、彼自身の「実母」である。それは殺人事件を起こす直接の原因にも重なっていく。
 横田の罪名もやはり「強盗殺人」である。二六歳の時、かつて自分も世話になった更生保護施設に侵入して守衛を刺し殺し、奪うほどもない僅かな金と安物の万年筆を盗んで逃げた。逃げる途中、知り合いに顔を見られると、わざわざ「奥で守衛が死んでいるよ」と自らの犯行を告げてさえいた。もちろん、すぐに指名手配が回った。
 ここから彼がとった行動は、さらに意表をつくものだった。二日ほど逃げまわって騒ぎを大きくし、いよいよ警察に自首する時、電話帳で調べた読売新聞社に電話を入れ、自分が犯人であることを告げた。約束の場所に駆けつけてきた記者に自分の写真をたっぷりと撮らせ、実母の情報や連絡先を詳細に伝え、それから神田警察署に自首するという段取りを踏んだ。そんな殺人犯の行動を関係者は、精神的に追い詰められて動揺していたのだろうと受け止めた。
 横田は裁判でも何も語らなかったが、渡連にだけは真実を打ち明けた。つまり新聞社への自作自演の垂れ込みは、当初からの計画だったというのだ。なるべく大きな事件を起こし、かつ自分の顔写真入りで報道させ、その犯行を確実に実母に知らせて目一杯の迷惑をかける。つまり事件の動機は母親への逆恨み、または当てつけと言い換えることが出来た。
 事実、逮捕の翌日、読売新聞はスクープ扱いで「呼び出した本社記者に語る横田(※仮名に変更)」という説明文をつけ、ジュースを飲む横田の写真を掲載し、大々的に報じている。実母のコメントは掲載されていなかったが、間違いなく連絡は入れただろう。横田のもくろみはまんまと成功したわけだ。一点だけ思惑と違ったのは、記者に延々と述べた実母への恨みが「横田は家庭に恵まれなかった」としか記されなかったことだ。
 そんなことまでして彼が得たものは、実は心の奥では求めて止まなかった実母からの謝罪でもなければ、世間からの同情でもない。処刑台送りという破滅的な幕切れだけだった。

「あんた、なんでそこまでお袋さんを怨んだのかね……」
 渡辺からの遠慮がちな問いに横田は、「待ってました」と言わんばかりに語り出した。
 自分は秋田県に生まれた。四歳の時、父が戦死した。大好きだった母は、父の実家と折りあいが悪く、自分が八歳の時に満州に渡ってしまった。育ててくれた祖父は昔気質な厳格な人で、よく怒鳴られた。誉められたことも抱きしめられたことも一度もない。居心地の悪い家を飛び出し外で窃盗を繰り返して補導された。すさんだ少年時代、いつも心にあったのは、「いつか必ず母さんが迎えにきてくれる」という希望だけ。自分にとって母親は出て行ったのではなく、仕事に出かけただけのはずだった。そう信じ込んでいた。幼い子どもに、母が自分を捨てたなどと考えられるはずもない。
一五歳の時、親戚の噂に、母が満州で再婚した男と北海道に戻ってきていると聞いてからは、もう居ても立ってもいられなくなった。
 「私はもうお袋に会いたい一心で、ほとんど飲まず食わずで秋田から北海道の桧山郡というところまで訪ねて行ったんです。ところが俺の顔を見たお袋は、あたたかく迎えてくれるどころか驚いて、土間から部屋に上がらせようともしませんでした。お前とは緑が切れている、帰ってくれというわけでして。私はあれから本当に荒れました……」
 その時のことを語る横田は、幼い子どもが戸惑っているような、何とも言えぬ複雑な表情を見せた。その顔に渡辺は、草履で踏みつけられた道端のタンポポの花を見る思いがした。しかし人間は、枯れてお終いというわけにはいかない。踏まれても踏まれても、生きていかなくてはならない。
 それから横田は上京し、木工所に勤めるも長続きはせず、窃盗を繰り返しては少年鑑別所を出たり入ったりした。実母に二度も捨てられたという現実に耐え切れず、いっそ死んでしまおうと何度も手首を切り、自殺未遂を繰り返した。渡辺は、死刑囚の多くが殺人を犯す前に自殺を試みているのは本当に共通しているなと思った。絶望の果てにその手に握った刃が、自分か相手のどちらに向くかなのだ。
 横田は成人してからも窃盗を繰り返し、ついには二度の実刑判決をくらう。あわせて懲役一〇ヵ月、そして一年の刑務所暮らし。二度目の出所は二五歳の時だった。しかし、もはや行く当てもない。日雇いの土木仕事や中華料理店の皿洗いなどの仕事を転々としたが長続きはしなかった。少年時代に心のどこかにぽっかりと開いた穴から絶えず水が漏れ落ちるように、横田の心は何をしても満たされることはなかった。彼は、一旦レールから大きく外れてしまった自分の人生を、もう一度まともな場所にはめ込むことが出来なくなっていた。
 その年の一二月半ば、二六歳になった横田は再び、一度は追い返された北海道の実母の家を訪ねている。そして家に泊らせてほしいと頼んだ。居場所を失っていよいよ切羽詰まり、実母に甘えようとしたのだが、奇妙に歪んだその甘えが受け止められるはずもない。
 実母は横田を二日ほど泊らせている。だが、彼を受け入れた訳ではなかった。一〇年前、家の土間から追い払った少年は立派な大男になっていて、以前のように簡単には追い返せなかっただけだ。新しい夫との間にはすでに子どももいる。これ以上、長居されては困る。
 考えあぐねた実母は、貯金していた一万五〇〇〇円を息子に手渡し、ここから出て行ってくれと頼んだ。いわば「手切れ金」だ。しかし、横田にしてみれば金が欲しかったわけではない。金が目当てなら、わざわざなけなしの所持金から高い旅費を払ってまで北海道に来る必要もなかった。再び、ひとり東京に戻る汽車の中で、母への積年の怨みはメラメラ燃え上がった。
「東京で大事件を起こして、あの女を一生、困らせてやる」
 二週間後、大晦日を待って犯行に及んだ。金が欲しかったのでもなく、守衛が憎かったのでもない。そこにあったのはただ、自分に見向きもしてくれない母親への怨みだけ。それも愛情と裏返しの怨みである。だから、ことあるごとに裏と表が見え隠れする。

 日々の教誨面接で、横田が口にするのは母への恨みどとばかりだった。四月二三日の日誌には次のように語ったとある。
「先生、子にとって母というのは、他に置き換えることが出来ない存在です。父でも祖父でも優しい叔母でも駄目なんです。植物が固いコンクリの上にも芽を出せるのは愛情があるからで、愛情がないと成長しないまま曲がってしまうんです」
 さらに渡辺が差し入れた『昆虫記』を読んだ感想もこう続く。
「先生、昆虫と人間も同じ動物ですよね。あれを読むと虫だって子どもが一人前になるまでちゃんと育てているのに、人間というのは虫ケラにも劣ります。私もあの母さえいなければ、こんなことにはならなかったんですよ」
 山から湧き出した水が自然と低い所へ流れ込むように、横田はそうすることが当然と言わんばかりに、自分の人生を覆った不運と不幸の原因をことどとく実母の存在に結びつけようとした。彼の側に立てばそれもあながち間違いではないのかもしれないが、渡辺は、横田の心の中で際限なく膨らみ続ける母への「怨念」を少しでも取り払わなくてはならないと考えた。
 自分の右手の障害を罵られて殺人に及んだ大橋の場合もそうだが、死刑囚自身の心の奥底に燃え続ける怨みの炎を消さないことには、平穏はやってこない。自分が被害者であり続ける限り、自ら手にかけた被害者に思いを馳せることなど出来るはずもない。そんな心の状態に「処刑」という形でしかピリオドを打つことが出来ないのだとしたら、あまりに不憫だ。せめて誰を怨むことなく静かな心境で逝かせたい。渡連は、それが自分の仕事だと思った。
 浄土真宗では〝緑″の存在は大切にするが、〝親の因果が子に報う″というような考え方はすべきではないと渡辺は言う。人間として深い業を背負っていても、自分次第で人生は変えられる。「因」を超える「力」があれば、「果」は変わりうる。だからこそ、大切なのは〝ただ今″をしっかりと生きることであり、〝平生業成″なのだ。横田も今は獄中にあっても、たとえ実母と語り合うことは叶わなくても、彼の心と考え方次第では母との関係に平穏を得ることが出来るはず。渡辺がそう根気強く説いている様子が「教詩日誌」には綴られていた。

 八月二二日(火曜日)
 最近、まことに元気がない。現在の境遇で自分のすべてが終わると考えるなと言う。
 苦悩の中に一生懸命に、なぜ人間に生まれ、人間として生きてきたのか考えなさい。
 生きがいというのは、自分自身が見つけ出すものだからと述べる。

「死刑囚の胸中が先生に分かるはずがない。こんなこと先生も経験したことがないでしょう。苦痛は分かると言葉では言うけれど、本当の苦痛が分かるはずがない」
 横田は開き直ったように、自分が殺したのは間もなく寿命がくる七〇代の爺さんだった、まだ二〇代の若い自分が殺されるのは割りにあわないなどと当たり散らしたりもした。そんな風に攻撃的になる一方で、度々、物も言えぬほど落ち込んだ。
 渡辺は、横田の気分がすぐれぬ時は説教をやめた。代わりに、彼が好きだと言った「讃仏歌」をテープレコーダーで流しては聞かせた。独房で母への怨みが燃えさかる時には、とにかく「落ち着くから写経をせよ」と道具を買って与えたりもした。
 そのようなやり取りを繰り返しながら半年もすると、爆発を繰り返していた横田にも、徐々に小康状態が訪れるようになっていく。渡辺に対して吐きだす母への憎しみの言葉の量と、彼が冷静さを取り戻していく時間とはゆるやかに反比例しているように思えた。
 一年もすると横田は、自分が手にかけた老守衛に対しても、申し訳なさを覗かせるようになった。妻と子が遺されたことを渡辺から聞かされ、彼らに手紙を書く勇気こそ出なかったが、月命日に進んで読経するようになった。まだ完全ではないものの、ようやく実母への思いに一区切りつけ、自分が犯した罪に向き合おうとしている風に見えた。
 横田はこの年、死刑判決が確定したばかりだ。先は長い。この調子ならいずれ実母に対しても穏やかな心を取り戻せるだろうと、渡辺はどこか楽観していた。

  五 横田和男の最期

 自分を捨てた母親に当てつけるために、世話になった施設の老守衛を殺した横田和男も、その日を迎えた。
 次々とペースをあげて行われる執行に、覚悟は出来ていたようだった。前日の昼前に行われた所長による宣告にも動じる風はなかった。
 北海道にいる実母が、たとえ今日の昼に「明朝の執行」を告げる電報を受けとっていたとしても、東京に駆けつけるには最低でも丸一日はかかる。すでに寒風に向かっているとしたら、連絡を取ろうにも取れないだろうと渡辺は横田に言い聞かせ、母には会えないであろうことを納得させたつもりだった。
 夕方、代わりにやってきたのは東京に暮らしていた母の妹だった。「甥っ子があまりにも不憫」と何かにつけて気にかけ、面会にきていた叔母だ。
「あなたのお骨は私がきちんと引き取って、ちゃんとお墓に納めてあげるから何の心配もいらないからね。最後まで気を強く持つのよ」
 叔母は目に涙をたっぷりとたたえ、甥っ子のゴツゴツとした両手を握りしめた。一方の横田は一言だけ、「叔母さん、お袋から何か聞いていませんか」と尋ねたが、叔母は苦しげに笑うだけだった。彼はここでも取り乱す風はなかった。
 翌朝、陽もかなり高くなった午前一〇時をまわってから、横田は小菅刑務所に向かう車中の人となった。
 その日、小菅では三人の執行が行われることになっていた。一人目は仏教の他宗派の教誨を受けていた者、二人目はキリスト教、そして三人目が浄土真宗の横田だった。師匠の篠田は最初の執行の時は一緒だったが、それ以降は渡辺ひとりで立ち会うことが増えていた。
 小菅への道中、横田もまた無言で窓の外を眺めていた。歩道を歩く通行人とすれ違うと、顔を覗き込むように首を伸ばしてキョロキョロしている。久しぶりに、そして最後に見る外の世界。ここに座る死刑囚の多くは同じょうに振る舞うもので、渡辺もさほど気にはしなかった。朝のラッシュも終わっていて渋滞もなく、順調すぎるほど順調に目的地に着いた。
 刑場の教誨室で最後のタバコを吸わせ、お別れの儀式を済ませ、いよいよ執行の部屋へと移動しようとした時だった。横田が動かなくなった。「さあ」と刑務官に促されても、両足から根が生えたように踏ん張っている。
 それまでつつがなく進んでいた場の流れが急に途切れ、居合わせた全員がぎょっとした。たくさんの視線が突き刺さった男の顔に、大粒の涙がポロポロポロポロこぼれる。横田は渡辺にすがりつくようにして叫んだ。
「先生!お袋はやっぱり来てくれませんでした!もう私には時間がありません、もう間に合いません!あの時、お袋に捨てられさえしなければ、私はこんなことにならなかった! お袋は私を捨てた、捨てたんです!」
 そう言って、まるで子どものように顔を隠そうともせずワンワン声をあげて泣き始めた。
 一五歳の時、少年は母に会いたい一心で、ひとり北海道の果てまで訪ねていった。そして、無下に玄関先で追い払われた。本当はあの時、横田はこうやって声を張り上げ、母に抱きついて泣き叫びたかったにちがいない。それが出来ぬまま、その時の感情を心の奥深くに閉じ込めたまま生きてきた。大人になってどんなに口汚く実母を罵ろうとも、彼が向かった旅路の先にはいつも母の姿しかなかった。
 この期に及んでの横田の絶叫は、一五歳から心の成長を止めている彼の内なる子どもの叫び声のように渡辺には響いた。執行される間際、母がすぐ目の前のドアを破って駆けつけてくれるかもしれないという一縷の望み。その望みはまたも大きな絶望だけをもたらした。
 「お母さん、お母さん!」
 横田は声にならない声で、届くあてもない名を叫び続けている。事態を察した刑務官が互いに目配せし、サッと彼の四方を固めた。両脇を抱え、ズルズルと処刑部屋へと引きずっていく。横田の号泣が、叫びにも似た響きを帯びてくる。もはや順を踏んで行われたお別れの儀式の余韻など、どこかへ吹っ飛んでしまった。平素は神聖な儀式を準備して何とか現代にふさわしい形を整えている処刑も、こうなると一転、よってたかっての殺人現場と化す。
 渡辺は、そこに呆然と立ち尽くしていた。
 命あるうちは決して止むことのないであろう横田の叫びに打ちのめされていた。母を怨んだまま死なせてはならぬと何年も教誨に臨んできた。自分が犯した過ちを自分の行為として受け止め、母を赦し、穏やかな心で旅立ってもらいたいと面接を続けてきた。しかし、そんな渡辺の心のうちなどお構いなく横田の両手が力ずくで縛りあげられ、容赦なく作業は進んでゆく。
「あの女のせいだ!」
 必死の形相を、白布が覆った。何本もの手が、横田の身体の周りを忙しく動く。黒光を湛える太い絞縄が強引に首にかけられた。刑務官たちはこの一瞬を成功させるためだけに、どれほど長い時間、本意でもない練習を積み重ねてきたか分からない。失敗は絶対に許されなかった。
「お母さん! お母さん!」
 白布で遮られた横田の叫びは、くぐもったような鈍い響きに変わっていた。その足元で身をかがめ、レバーのハンドルを握って待ち構えている刑務官の眉間に一層、深い苦渋の縦皺が浮かびあがる。そこに立ち会った誰もが、その時が一刻一秒でも早く過ぎ去ってしまうことを心から願い、目を閉じた。
 横田の身体が視界から消え去る間際、渡辺の頬に大粒の涙が伝っては落ちた。

 ーそん時、わっし、涙が出てね、お経が読めなくなったんだ……。「先生、わしは母親に捨てられなきゃあ、こういうことになるんじゃなかった」 って泣かれてね、本当にこたえました。わしは……、長い間、教誨をしてきたけど、結局、何も出来んかったと。結局、彼は最後まで母親を怨みながら死んでいった。自分の力不足も感じたし、残念でもあったし、ええ……。本人が母親のことを怨みながら死んでいかなきゃならなかったという心の状態がね、それが可哀想でね。何のために教誨を続けてきたんだろう思うてね。ほれで、ガターンと落ちた時に、もう、お経が読めなくなったんですよ。
 「キ、、ミヨウ、ムーリョウ、ジューニョーライー……」
 そっから声にならない、まったく……。それで暫く休んでいて、全部が落ち着いてからまた、ひとり「ナームーア、、、-」言うて、ひとりごとみたいに言うて……、そういうことが ありましてね……。

 齢八〇を越えた渡辺の頬を、その時と同じように涙が伝った。唇の両端が微妙に震えて下がる。それ以上の感情の波がくることを許きぬように、渡辺は白いガーゼのハンカチを慌てて取り出して顔の全面をゴシゴシ拭い、ついでに予期せぬ涙をぬぐった。

 ーそれで……その時の教育課長がね、わっしのそばに来て「つらいですなあ! 先生、おっらいですなあ!」って肩を抱いてくれましてね、一緒に涙を流してくれました。課長は元々は僧侶だった人でね、教育課に何十年といた人でしたから、わっしの気持ちを察してくれたんでしょう……。そういうことがありました……。
 横田の執行を終えて、三田の寺に戻った。執行の立ち会いをした日はいつもするように、家族に顔も合わせぬまま一目散に本堂へと向かった。阿弥陀様の前に座り込み、上半身を床に投げだして同じ言葉を繰り返した。
「阿弥陀様、わっしは今日も可哀想なことをしてしまいました、可哀想なことを、可哀想なことをしましたぜ……」
 耳の奥の方で「お母さん!」と叫ぶ横田の声がこびりついて離れなかった。そのまま冷たい本堂の床に、ずっと顔を伏せていたかった。

 横田の死刑執行から暫くして、東京の叔母が渡辺の寺に遺骨を引き取りにやって来た。余計なことは一切言わないでおこうと思った。今さら真実を語っても、誰も救われない。
 「横田君は立派に、従容として逝きましたよ」
 決まり文句を事務的に伝えた。このことは、どの遺族に対しても同じである。他にやりようがない。幸い叔母もそれ以上、何も聞こうとしなかった。刑場での思い出したくもない光景がつと涙腺を刺激するような気がして、渡辺はなるべくその場を早く切り上げようと思った。
 すると暫くの沈黙の後、叔母は申し訳なさそうな様子で頼みごとを切り出してきた。この寺の墓所に、甥っ子の墓を作ってもらえないだろうかというのだ。頼りにしていた菩提寺には、「死刑囚の遺骨など引き取れない」と拒否されてしまったのだという。
 「檀家でもないのに、ご無理は承知しております。私は独身で、多少は金の自由もききますし、お寺様にはご迷惑はかけません。甥っ子の墓を維持するためのことはすべて、私が責任を持ってやりますから、どうか……」
 叔母は渡辺にすがるように必死の言葉を並べた。死刑囚の遺骨の多くは、引き取り手がない。家族がいても、である。掛け値のない叔母の言葉は渡辺にとっても、せめてもの救いに感じられた。死しても尚、彼のことを想う人がいる。それは横田という男が、たとえ満たされぬ人生であったとしても、この世に間違いなく生きていた証でもあった。
 「私も横田君とは何年も向き合ってきた仲ですから、まったくの他人でもありません。ご依頼をお断りする理由は、私には見当たりませんよ」
 そう返すと叔母は全身の力が抜けたように小さく肩を落とし、たった二言、「本当に、ありがとうどざいます」と深々と頭を下げた。
 横田の墓は、本堂のすぐそばに作ってやった。叔母は彼岸と命日の墓参りを欠かさなかった。渡辺も折にふれ、「おい、元気でおるか」と声をかけて線香を供えたりした。それから何十年か経って、その叔母も亡くなった。後に姪を名乗る女性が寺にやってきて、実家の墓に叔母の遺骨と一緒に埋葬しますからと横田の遺骨を引き取って行った。
 母という人は、横田の物語が終わるまで、一度も姿を現さなかった。
【注】(藤枝)
 渡辺普相(1931 昭和6.1.11~2013年 平成25 12.1)
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篠田師より死刑囚の教誨師を勧められ即受(二八歳)ー後、全国教誨師連盟理事長



        
(出典 『教誨師』(堀川恵子著、講談社)
「横田  (仮名)の場合」
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