RE 病苦と宿業

安田理深先生への手紙

「私は山形県の大谷派寺院の65歳になる1僧侶であります。実は私去る昭和48年5月に硬蓋腫瘍という病気で東北大学付属病院耳鼻科にかかり、それ以来手術をしては再発の繰り返しで、この度9回目の手術を受け、来週中さらに追手術ということになっております。
 主治医は殆ど説明してくれず、ただ早く見つけて小さいうちに手術するのが最良の方策だというだけであります。
 退院すれば寺に帰り不自由な口ながらも、門徒の人々を相手に、月両度のお講や、月三つの道場の会を勤めたり、毎月発行の寺だよりを続けたりしているのですが、それがあまり度々中断するものですから、門徒たちも呆れかえっているような始末であります。 
 先年、同朋の会にも、お講にもよく詣って、熱心に聞法してきた一老女が、嫁との折り合いがつかなかったものか、自らの命を絶ってしまったことがありました。その時、あんなに聴聞していても自殺しなければならなかったのか、などという陰口を耳にしまして、私は長年親しんだ門徒の一命をかけるほどの悩みを聞いてやれなかった自分を、まことに申訳く、且つ不甲斐なく思うとともに、宿業というものをどう受け止めるべきかという問題について、あらためて考えさせられましたが、もともと追求心の弱いものですから、いい加減なところでケリをつけてしまったのでございます。
 いい加減なところと申しますのは、本願のかかっているこの身であると知って念仏が申せる
ようになったら、わが身の上に起こる一切のことがらは、すべてわが宿業と、畏れず、ためらわずに受けとめ、決して自分勝手な思い、計らいに迷わされることなく、さらに進んで、そのことの中に含まれている如来のお心に励まされて、それを明るく乗り越えていく、これが即ち
往相廻向であり、同時にそこに還相廻向の香りも漂ってくることになるのではないか、といったようなところでした。
 そしてそれがある程度、私自身の支えとなって今日までの度重なる病気連発の不安、手術に伴う恐れや苦痛、退院後の日常生活における多くの束縛などを、比較的軽安にしていただいたように思われます。
 ところがこの度、上顎と硬蓋とを完全に失って、ふと、この次に来るものは何かということに思いをいたしましたとき、慄然とした次第であります。次は顴骨(ほおぼね)か下顎骨か、ともかく生きている限りはこの腫瘍のために次々と骨が削られ、肉がそがれ、眼球も繰り抜かれて、化け物のような顔になりながら、真っ暗闇の中に呻吟しなければならないことになるのでないか。そうなったら自分自身の苦悶も耐えがたいし、何よりも家族をはじめ、周りの人々
にも大変な重荷、苦しむことになるだろう。 
 実際、私は第一回目の手術で入院したとき、同室の患者で、ガンのため顔の右半分を眼球ともども抉りとられ、昼夜の別なく、時々獣のように咆哮しながら死んでいったのをみております。
 何と言う悲惨なことだろう。あんな風になったら、私などとてもたまらない。その時きつい
印象をうけました。
 この患者のような状態は考えただけでも堪えきれません。そん風になっても、いのち尽きるまでは、これが我が身の宿業であると受け止めて、念仏もうしていけるような自信は、とても今の私にはありません。
 病苦の余り自決するなどということは、確かに宿業をすなおに受けとめようとせず、自分の都合で逃避しようとする自力のはからいだといわれれば、そのとおりのような気もいたします。
 しかしまた、それならば、浄土真宗とは聖道門どころでない、難行苦行の道なのかと反問したくなります。
 「弥陀の光明に照らされまいらするがゆえに、
一念発起するとき、金剛の信心をたまわりぬれば、すでに定聚の位におさめしめたもう」ものならば、病気で死のうが、老衰で死のうが、自殺だろうが、事故死だろうが、もうそこには問題がないのではないか・・・と逃げ込みたくも
なります。
 一面、どんな恐ろしいところにも直面していけるのが金剛の信心というもので、病苦ぐらいでへっぴり腰になっているのは、まだまだ聞き方、いただき方が足りないからだ・・・と叱りつける声も、どこかから聞こえてきます。
 そうかと思うと、「卯の毛、羊の毛の先にいる塵ばかりも、造る罪の宿業にあらずということなし。さるべき業縁のもようおさば、いかなる振る舞いをもすべし」とあるから、万一自決することができたら、それも宿業というものではないか、などとこじつけたりして、まことに混迷いたしております。
 要するに、この後もこの不治の病とおつきあいしていく勇気が今の私にはもてないのでございます。この上は先生のみ教えをいただくほかにないと思いまして、ご迷惑を顧みず、不躾なお願いを申上げた次第であります。
  昭和53年8月19日
     東北大学病院耳鼻科にて
                織江祐法」

(仏法聞けば金剛の信心げできて、何がきてもおそれなくなるはずだ・・・夢、理想論)

安田先生返事
「お手紙を読んでみますと、教えを解釈した心で現実をおそれる心を説得させようとしている。しかし納得できないというのが、目下のあなたの状態のようです。納得できないのは当然であって、聞いた心と、病気をおそれる心と、心と心との間には、心自身の流転があるだけでしょう。
 聖典のことばそのものは真理のことばであるから、間違いがあるはずはない。現実そのものも宿業の因縁というもので、動かすことはできない。真実の道理も、業縁の道理も、これは心を超えたものである。悩み惑うのは、真理の言葉を理解したこころと、現実を畏れる心と、心と心とが悩むのであって、現実そのものはまったく心を超えたものである。
 問題は、その自分の心を知らされ、心の思いから脱出せしめるということでしょう。心をもっているものに、心を捨てよということはできない。ただ、心はもとより動乱するものであることが本質です。そこにはわがままな固執もあるし、愛着もあるし、心の思いというものは何も当てになるものではない。問題は心を知ること。心の考えは当てにならんものだと知るということが、心の自覚。業も、それを恐れる心の対象と見れば、運命になります。恐れる心そのものが業縁を背負うている。それが業縁の自覚です。
 結局、聖典の真理によって、心を転じて自覚するというところに結論がくるのでないかと思う。自覚は、心を破り、心を超えたものです。心は惑うものであり、悩むものであるけれども、悩む心は死ぬまでなくならぬものに違いない。ただ悩む心だからして、同時に、目ざめる縁にもなる。心がどう思おうと心の思いを立場とするのでない。心を捨てることもできんが、心を立場としない。自覚が立場となるというのは、
本願名号にたまわった信心でしょう。
 宿業の衆生の身を痛み、むしろその衆生となって、衆生を自然の世界に帰らしめるのが本願の名号でしょう。これはお聞きのとおりです。
南無阿弥陀仏の他にわれわれがあるのではない。宿業の身をもった人間を包んで、自然の浄土に帰えす南無阿弥陀仏という大きな現実の真理が、思いより先に本来あるのです。結局、南無阿弥陀仏の中で心があれこれと思いはからい、現実を恐れる心が、現実を恐れる心で慰めようとしておるだけにすぎない。心はどんなに恐れ惑うても、我々を転じて自然に帰すのが南無阿弥陀仏である。心に相談する必要のない目覚めが金剛の信心。信心は我々の心の状態ではなくして、本願の智慧です。自殺するのの、最後まで自殺もできず迷うのも、そういうことは一切無関係でしょう、南無阿弥陀仏のはたらきには。
 一応、一言だけ、聖典の言葉を付け加えておきますと、親鸞は信心を得た後で、信心の智慧を得たから、思いがなくなったのでない。次元が変わるのです。金剛の信心を得ても、煩悩というものがなくなったのでない。かえって信心の智慧を得たがゆえに、思い煩う自分がはっきりした。それを懺悔して語っている。それが
『誠に知んぬ、悲しき哉愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し名利の大山に迷惑して定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまず。恥ずべし、傷むべし』
 ご承知の聖典の言葉ですが、金剛の信心を獲得した親鸞が、一変してこの言葉をのこして「ここに「愚禿鸞」といって「釈」の一字を抜いてある。釈を抜いて愚禿鸞といってあるほど深い
懺悔のことばなのです。」

 (要 『心がどう思おうと心の思いを立場とするのでない。心を捨てることもできんが、心を立場としない。自覚が立場となるというのは、
本願名号にたまわった信心でしょう。』)
 『親鸞は信心を得た後で、信心の智慧を得たから、思いがなくなったのでない。次元が変わるのです。金剛の信心を得ても、煩悩というものがなくなったのでない。かえって信心の智慧を得たがゆえに、思い煩う自分がはっきりした。それを懺悔して語っている。』)

池田師(関連)法話
 心は身についての認識機能なのです。このご住職の問題からすると、この心が身を支配しようとするけれど、支配できない。だから身に従うしかないのですよと、教えでは聞くけれども、そんな風には思えないというわけ。
 身は因縁の道理によって運ばれておる。心の支配下にはない。だから身に従う。それが自然法爾の世界だ。こう教えは言ってくださる、ところがこの心はそんなふうには思えません。やっぱり自分の思い通りにしたいというものしかないというわけです。
 本願にそむく、逆らう自分ーそれが現実。本願を聞いていたら、本願にお従いをするような者になると思い込んでおれば、それこそ妄念妄想。・・・親鸞聖人は、その背く自分をもって本願に出遇っていく行き方をお知りになった。だから本願向きになって本願を仰いでいくというのでなく、本願に背くという形で本願にふれていく、その歩みを身をもって教えてくださった。
 信心の眼で(決してハイと言わない、自分の思いを通そうというものしかもっていない)この心としての私をはっきりと見て行く世界が信心です。目ざめたということは、妄念妄想が消えたということじゃなく、妄念妄想の自分がいよいよはっきりしていくことなのです。
 それが本願の道理による我々の救済の要です。

(出典 池田勇諦 「平成17年度本山毫摂寺 夏期特別講習会第二日法話」より)
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