RE あかねの雲

両親(おや)おくり妻先にゆき子の急ぐ
  茜の雲は美しきかな
土橋秀高

土橋秀高(大正3(1914)年~平成元年(1989)■昭和期の中国仏教思想研究者。龍谷大学教授.
著書 『雲わき雲光る』
「親鸞聖人と涅槃経」「授戒儀礼の変遷」等
63件の論文

60才(定年より5年早く)龍谷大学教授辞任。子息(京都大学仏教学(院)、インド留学)の就職(東海大学助教授)を期に自坊(山科 真光寺)に戻り住職専業。その1,2年後、奥さん、暫くの患いで逝去。その1年後、自坊全焼(夕事のローソクの灯の消し忘れが因。住職1人住まい故、防音の書斎に入っていて気づかず。通行人が発見。火炎の中、消化器を取りに入り、頭、腕に火傷)。「私の責任」と詫びる。火災の翌日、「真光寺本堂庫裏再建委員会」立ち上がる(門徒の支援篤い)。2年半後に復興する。
 しかし、その1年前、東京から若坊守と孫2人、山科の寺に帰っており、子息は単身赴任。
毎日のように電話連絡。ところがある時、通じない。一週間ほどして、住職上京。電気こたつに足入れて自殺している子息を発見。死臭。遺書「自分が先にいくから葬式はしないで」。東京で火葬。山科の再建まっさらの本堂で葬儀。子息の腕時計一個を形見としてもつ。
「この孫2人が成人するまでは老骨に鞭打って頑張る」と式で挨拶。会葬者の涙をそそる。
 ところが1年後、一周忌の翌日、若坊守は2人の子どもをつれて寺を去る。
 全くの一人となる。教え子の浅田正博氏、先生を訪ね・見舞う。話は子息のことばかり。
 「春浅し部屋の隅よりせまりくる
   寂しさの中にわが子の声あり」
 「無字の経いつまであげる蝉和尚 
   その抑揚にわが子をしのぶ」
 「虫の音は血縁の糸ひきてやまず
   あの音あの声我呼ぶがごとし」
        …『雲わけ雲ひかる』所載
 こういう悲しみの中にも
 「逝きしあとなおも動けるこの時計
   永きいのちの尊さを思う」
 という法悦もある。

本堂に詣ると登礼盤上に色紙
 「両親(おや)おくり妻先にゆき子の急ぐ
    茜の雲は美しきかな」
どうして下の句がでるか?
 「娑婆の世界にわれを残して」という愚痴でない。このような苦しみの中で、感謝の念仏が出るのか。祈りの念仏にならないか。
 「願かけていのる心に先立ちて
   寄り添うみ親あるを思わず」
 という気持ちもあった。『雲わき雲光る』所載
先生の遺品の中に色紙
 「南無
  悔恨すれども歳かえらず
  憂悩すれども歳はからず
  悲喜ともに慈恩なり」

「光雲無碍如虚空 一切の有碍にさはりなし」
└ひかりぐも 
 碍りの雲に夕日の光があたると、碍りのまま
茜色にかがやく。悔恨、憂悩(障害物)も浄土の光に照らされると、涅槃の光(茜の雲)にかがやくのである。苦しみ(雲)があるからこそ、
お慈悲が知らされる。苦しみから逃げようとすると祈りになる。
 「茜の雲は美しい」とは単なるお浄土の讃嘆ではなく、苦難という雲が、浄土の慈光に輝くという意味であった。

《後日談》 
  晩年、門徒のすすめで再婚。ところがその坊守、異宗。門徒が相談にくると「祟っている」云々。離婚裁判。離婚のため、別居(住職が寺を出て、親戚を転々。)数年かかってようやく離婚成立。その10日後に住職逝去。

(浅田正博 取意)
  
(出典 福井市田原町光明寺特別法話
  本願寺勧学 浅田正博「あかねの雲は美し  きかな」 了慶寺CD34)
【キーワード】苦難 多難 慈光 遇斯光
   生死即涅槃