RE 三つの言葉 (宮城顗師講話 於小松 大谷派 本光寺 平成13年)

犬養道子という方がいらっしゃいます。世界的に有名ですね。とくに現在、世界で政治的な争いの中で、住むべき故郷を追われて難民となって苦労をされておられる、その人たちの救済に生涯をかけておられる方でございます。全世界を回って、活躍されておられます。ですから、いろんな国の人々と出会っていかれるわけでございますね。

そのときに、まずどの民族の人と会う場合でも、まず人間として第一の扉が開かれる、そういう言葉が三つある。これを犬飼さんは、おっしゃっておられますね。

その第一が何かといいますと、ありがとうですね。ありがとうという言葉。それからもう一つが、ごめんなさいという言葉ですね。そしてもう一つは英語ですが、プリーズという言葉だそうですね。このように犬飼さんおっしゃっておられます。

ありがとう、ごめんなさい、これは「何だそんな言葉か」と思われるかもしれません。しかしこの、ありがとう、ごめんなさい、そしてプリーズという言葉は、相手のことを思っているものです。

プリーズは、相手の気持ちを思って、もしよかったらこうしましょうかと尋ねる言葉なのですね。「もしあなたがよろしければ」、そこに相手の心を推し量る。そして相手のために自分にできること、何かできることをしてあげようとする、そういう心がプリーズという言葉なんです。

列車の中で発熱
 犬飼さんは敗戦直後に、アメリカに留学されました。そんな時代ですから、日本からの送金ということもできなかった時代だそうです。けれどアメリカのほうの留学生としての援助金といいますか、それだけで生活しておられたんです。
 そして、いろいろ心労とかご苦労があったのでしょう、身体をこわされました。お一人でしたので、療養所に入りなさいと言われて、アメリカの大陸を横断して、反対側の療養所へ行かなきゃならない。それで、アメリカは広い大陸ですから、夜行列車で二晩も三晩かかるのだそうです。留学生仲間とかが、あれこれカンパしてくれたお金を持って汽車に乗った。もちろん、一番下等の車両で、そして食事代の余裕がないので、レモンとパンを持って乗って、それだけで済まそうと思っておられたらしいのですね。   ところが乗車されてから、たいへんな熱が出ました。どうにもならなくなって、ボーイさんを呼んでジュースが欲しいと頼まれたそうです。そしたら来られた黒人のボーイさんが犬飼さんの様子を見て、あなた病気かと。すぐに医療関係の人が乗り合わせていないか、尋ねてくださったのですね。そして、お医者さんが診てくれた。
 それからボーイさんが、金はいらんから、もっと食べなきゃ体が持たんと言って、絶えず飲み物や食べ物を持ってきてくれたんです。そして療養所の場所というのは、その特急の寝台列車の最終駅からバスに乗り換え、少し後戻りしたところだったんです。
 それがまた大変なわけなのですが、そのボーイさんは到着の前の日に、「今この車内に、日本から来た一人の少女が病気で寝ている。そして療養所に入るんだが、そこに行くにはこの汽車が停まる駅からひじょうに遠い。それで療養所の近くの駅に臨時停車をするから、みなさんはまちがって降りないでくれ」。そういうことを放送してくれたっていうんですね。
 そして、療養所のある町で特急を臨時停車させて、降ろしてもらった。そしたら列車の窓から乗客が一斉に顔を出して、紙切れに自分の電話番号を書いて、困ったことがあったらいつでも電話をしなさいと下さった。そのときに、プリーズという言葉ですね。そのとき、プリーズという言葉でその紙を投げてくれた。
 そして、闘病生活は三年間近くかかったのですが、その間に何度も見舞いに来てくれたのが、その汽車に乗り合わせた人たちだったんです。そういうことが犬飼さんにとって、プリーズということなのですね。ほんとうに身をもって、受け取られたことなのです。
そのことが犬飼さんをやはり駆り立てて、今度は自分が何かしてあげられること、その難民の人たちに何かできることをということで、活躍をしておられるのですね。

三悪趣の世界
 それで、この三つの言葉が、人間としての出会いの扉を開く。この要のところ、この三つの言葉さえほんとうに口にできるならばどういう民族の人とも、まず出会える。人間として出会える。
 そして逆に言えばこの三つの言葉ができなければ、同じ家庭の同じ家族であっても、出会いはできないはずだ。そういう人間が、人間として出会うという大事な言葉としてこの三つの言葉ということを犬飼さんはおっしゃっておるのです。
 考えてみますと、人間が人間としてのあり方を失っておる世界、あるいは人間としては生きていけない世界。これを仏教では、三悪趣(さんまくしゅ)と説かれてございます。この悪というのは、人間としてのあり方を失ってる。そういう、人間として嫌悪すべきあり方を、意味しておるわけでございます。それで、その三悪趣というのは、実は三つの言葉を失った世界、こうあらためて気付かされるんですね。
 まず、このごめんなさいという言葉ですね。この言葉のない世界が、地獄でございます。そういう世界を地獄という。この獄という字は、けもの偏ですけども、二匹の犬が吠えあっておる。つまりワンワン、キャンキャン、こう吠えあっているかたちから来ておる言葉が、この獄なんです。
 お互いに自分の考えばかりを主張しあい、そこに自分を振り返ってごめんなさいということがない。そして相手の言うことに、耳を傾けて聞くということがない。ごめんなさいという言葉がないときは、その世界はお互いが自分を主張しあう生活に、必ずなっておるわけでしょう。

相手を切りきざむ
 しかもそこには自分の思い、自分の都合しかございません。人と出会うということについても、地獄の中ではひじょうに教えられるわけです。中には黒縄(こくじょう)地獄というのがございます。具体的には、大工さんが墨を含ませた糸を木材の上に張って、そして糸をピンと弾くと木材の上に線が引ける。その引いた線に沿って、木を切っていく。
 ちょうど同じように、私たちはいつも相手に墨縄を打って、そして自分の打った墨縄に沿って、相手を切り刻んでおる。それが私たちの生活ではないか、ということですね。
 私は教育の現場におりましたので、ある言葉がいつも思い出されるのです。フランスのアランという人が面白いことをおっしゃっているのですね。
 「梨の木が梅の実を成らさないからと言って、けっして咎めだてはしない」
 これが人間としての義務である、こいうことをおっしゃっているのですね。ちょっと見ますと、こんなこと当たり前ではないかと。だれが梨の木に向かって、何でお前は梅の実を付けないのだと、そんなことで文句言う人はいないだろうと。そんなわざわざ、それが義務だと言われなくても、そんなことはしないと思います。
 だけれども、私たちはたとえば自分の子どもを、育てる。そして学校が子どもを育て、教育する。その時、振り返ってみますと、実は梨の木に梅の実を求めるということを、一生懸命しているのではないか。いまは梅の実が、世間で評価される。梅の実が多いほど、あの子は将来性のある子だとかですね、梅の実はいろいろございましょう。
 一番日常的には、学校の試験の成績ですね。試験の成績が最高のが、梅の実でございましょう。通知簿を見て、何だお前は、梅の実一つしかないではないか。となりのだれそれ君は、梅の実が五つもあるそうではないか。お前は何しとるのだと。こういう言い方をしますね。
 それはちょうどアランの言っておることと、そっくりです。私たちは、いったいこの子は何の木なのか、ほんとうに見つめたことがないままに、ともかく梅の実を付けなさい。梅の実を付けなければ、だめなのだと。

登校拒否の生徒
 いわゆる登校拒否の子どもというのが、おります。数年前ですが、箱根で登校拒否を続けている子どもたち、そしてそういう子を抱えている親とか先生が集まられての会がありました。その時に、一人の高校生の女の子が、自分の体験を、自分のどうしても学校に行けなくなった、自分でも行かなあかんと思って何とか行こうと思ったけど、まったく行けない。いろんなそれまでの積み重ねで、心理的にやはりそういう気持ちが、どうしてもなくらない。
 それで学校へ行くのがイヤだって言ったら、親がそれをどうしても認めてくれない。ともかく学校へ行きなさいと言うばかり。それで最後に、二階の自分の部屋から飛び降りた。二階ですから死にはしなかったですけど、大けがをした。
 そしてお母さんもその時に初めて、そんなにイヤなのか、そんなにイヤなら、ということで、しぶしぶ学校に行かないことを黙認してくれた。だけど、それからいつもそばへ来ては、学校ぐらい出てなくて将来どうするのだ、そればっかりを言う。いったい今死にたいと思っている子どもに、学校ぐらい出てなくて将来どうするのだと、そういうことしか言えない親って何ですか。そういうことを、その会で発表しているわけです。
 その場合もやはり黒縄地獄でございます。その子どもが感じておりますことは、けっきょく自分の気持ちがほんとうに、よいにつけ悪いにつけ、ともかくあなたの気持ちはどうなのだ。まず自分を受け止めてくれて、それならこんな道が考えられるのではないかと。そういう導きではなくて、頭から学校ぐらい出てなくて、と。
 そして、学校へ行けば優秀な成績、<5>が五つか六つなくてどうするんだ、偏差値こんなに低くては、ということになる。これ全部、黒縄地獄でございます。そういうところでは、お互いに自分の黒縄地獄では、自分の持っておる物差しをもう一度振り返って、この物差しで人を測ってよいのだろうか。この物差しで、この子を頭から決めつけてよいのだろうか。
 そういうことは少しも振り返らずに、ただ自分の持っておるその手持ちの物差しで、お前はだめではないかと、こういうことになる。そういうところには、ごめんなさいという気持ちはない。やはり子どもに対して、子どもをほんとうには見ていない。子どもに対する思いというものは、そこに少しもないということですね。そういう世界は、まさに黒縄地獄そのものでございましょう。
 そして、地獄を大きく分けて八つにいわれます一番最後の、最後ということは一番深い地獄ですね。これが無間(むけん)地獄といわれております。その無間地獄におきまして、われ今帰るところなし、孤独にして同伴なしと、孤独無同伴。こういう言葉で、言われてございます。孤独という問題ですね。
 ごめんなさいという言葉を失う世界は、けっきょく元気な間は自分を押して押して主張して、回りを蹴散らしてでも生きていけるのです。しかし自分の力というものが奪われていきますと、気がついてみたらだれも周りにいない。
 我、今帰るところなし。帰るところというのは、そこへ行けば自分が自分に帰れるところですね。つまり、帰れるところというのは、私の帰りを待っていてくれる人がおる。そこが帰れるところでございましょう。だれも待ってくれていない。
 テレビのコマーシャルにありましたですね。マンションで一人暮らしのサラリーマンですね。毎日帰ってきても真っ暗で、だれもお帰りといってくれる人がいない。ドアを開けて入る時に、寂しいなと思って入る。その時ドアを開けて中に入ると、お帰りなさいという声が聞こえる。見たら、うがい薬がですね、人の形になって、お帰りなさいといっているのですね。何かそういう薬でもなんであろうと、お帰りなさいと言ってもらえるということですね。
 今、この孤独ということがほんとうに深い問題になってきております。昨年大学で、講義を始める前に学生諸君に、今人間ということについて思っておることを、なんでもよいから書いて欲しいといって、文章を書いてもらったのです。そしたら学生の中の十何人は、孤独が怖いと書いているのですね。孤独が怖いということは、ギョッといたしました。
 私らの場合だと、孤独で寂しいといいますね。孤独が怖いと、いきなりこう書かれてある。そこにある身に感じておる、孤独感の深さですね。最近の若い人には、なにかそういうものが、やっぱり深まっておるのかな、ということを思います。

“圏外”孤独
 昔の言葉で、天涯孤独ということがありますね。この天涯孤独、もともとはこの広い天地の間にだれも自分を待ってくれる人がいない。私ひとり孤独だと、我が天涯孤独だと申しました。今は、そうではないそうですね。圏外孤独と、言うんだそうです。   お分かりの方もおいでかもしれませんが、私ら年配のものには分かりませんですね。これどういうことかと言うたら、携帯電話のかかる範囲が圏内ですね。そして、携帯電話が通じなくなる、そういう場所を圏外という。すると圏外に行ってしまうと、もう友達と携帯電話もメールも届かなくなる。それが一番怖いのだそうです。
 今の若者は、いつでも携帯電話で話ができるとかメールのやり取りができる。そういうことが確保できないと、とても寂しくておれん。ともかくそういう形で、つながりがあるのだ。そのつながりを確かめておかんと寂しくておれんというのが、今の若者たちですね。  
 ですからほんとうに、のべつまくなしに電話でございますね。一年前までは、授業中でも携帯電話が鳴るのです。ですから何回もやかましく携帯電話の電源を切りなさいと、授業中は切りなさいとやかましく言っておりました。今年なんかちっともかかってこんですね。 
 そしたらみんな下向いて、なんか一生懸命やっていますから、大分ちがったな、効果があったのだなと喜んでおりました。下向いてやっているから真面目だなと思っておりましたら、下を向いてメールを打って、相手と会話できるわけなのですね。こっちは知りませんから、ほう静かになったな、そういうことでした。
 先日も、福井のほうの、友達が勤めている大学に行きました。話をしておりましたら、先日ある講師を呼んで、三百人ほど入る講堂で講演をしてもらったそうです。友達が階段教室の一番高いところに上がって、つまりそこが一番後ろですから、学生を前において後ろで聞いてたんです。みんなシーンとして聞いておる。今日は、みんなよう聞いておるなと。ところが講師の先生がスライドを使って説明をするので、部屋の電気を消した。
 そして、友達が下を見まわしたら驚いた。全体が赤やら黄色やら、携帯電話の電気がついておるのですね。ですから色とりどりの色がワーっと、こりゃなんだと。始めは分からなかったんだけど、みんながメールばっかりしておったと。そういう現実がございますね。
 それはともかく、のべつまくなしに関わりがあることを確保して確認してないと、寂しくておれない。そういったところに、こんな問題が出てくるのでしょう。けれども、そういう孤独になるのもけっきょくは、ごめんなさいという心。生活の中にそういう心を失い、そういう言葉を失ったときの行き着く先は、バラバラでございますね。お互いに、人に頭を下げない、人の心を大事にしない、そこではおのずと孤独ということを、まぬがれんのでございましょう。

何があっても不十分
 そして、ありがとうという言葉のない世界、これが餓鬼でございます。そういう餓鬼の生活というのは、ありがとうという言葉のない世界、こういってよいかと思います。これは、限りない貪(むさぼ)りです。もうこれで十分ということがない。どこまでいっても、貪りの心は消えない。
 その限りない貪りと、しかも徹底した傲慢(ごうまん)。いま現にいろんなものを身に受けて生かしてもらっているのだけども、そのご恩ということは少しも思わない。ただ、もっともっとということを求め続けてやまない。
 ですから、餓鬼というのは何も持っていない。食べるものも飲むものも持っていない、というあり方だけではございません。無財餓鬼というものと、有財餓鬼というもの、両方説かれてございます。
 たくさんの物に囲まれていながら、なお貪っておる。どこまでいっても、もうこれで十分ということがない。おかげさまという心を知らない。ありがとうという心がないときには、もう徹底した貪りというのをまぬがれない。そういう世界が餓鬼の世界であります。
 そこでは、けっきょくすべてのものは自分のために利用するという関わり方しかない。利用するためにはできるだけ効率よく利用しようということで、いろいろと効率を求める。

あんた、仏教の勉強したか!
 私の後輩の友達ですが、富山のほうのお寺に養子に入りまして、そして初めて御門徒さんのお家を、あいさつがてらお参りをさせてもらって歩いておられた。たまたま何日間か雨が降り続いた後の、その日はよく晴れた日だったそうです。ですからどこでも洗濯物がたまっていますから、いっせいにお日様の下で庭中洗濯物を干して乾かしていた。
 たまたま山際のお家に行ったら、お婆さんがやっぱり洗濯物を干していた。ところが見ていたら、家の前にお日様がいっぱい当たっているのに、そこに干さずに軒下に干している。日陰ですね。それを友達が不思議に思って、「おばあさん、こっち日がいっぱい当たっているのだから、こちらで干したら気持ちよく早く乾くのではないか。そこでは洗濯物が少しも乾かんでしょう」と、言ったそうです。
 そしたらおばあさんがその友達をジロッとにらんで、「あんた仏教の勉強したか」と言われたそうです。びっくりしましてですね、だけどその友人は大谷大学で仏教を勉強して、それから卒業してからは、本山の研究所で私も一緒に仕事をさせてもらった。
 「本山の研究所でも仏教を勉強、聞法してきた」と言ったらですね、このおばあさん、「うそつけ」と言われたそうです。「うそつけって言われてもなあ」って言ったら、「自分の肌に着けたものを、そのおかげで日暮らしさせてもらっているお日様に、直接さらすようなことを平気でするものが、何が仏教を勉強しただ」とこう言って怒られたというのですね。
 けっきょくこの問題は、お日様のおかげを思わずに、まず効率を考える。効率を考えると、お日様のあたるところに干したほうがいい。それはもう乾くにきまっとる。だけどそこに、お日様に対する思いというもの、そのおかげを受けておるということの喜びというものがあるのだ。
 そういうことが分からずに、まず利用するということが頭に来るようで、何が仏教を勉強しただ、こういうことを言われたのですね。そういうのがその友達の話で聞かしてもらいまして、印象に残っておるのです。
考えてみますと、私たちはどんな自然なものでも、全部どう効率よく利用するか、そこからどう利潤を上げるかということが、まず頭にくる。友達関係でも、けっきょく利用ということがございます。何かそういうところでは、ありがとうという言葉が失われている。すべてがまさに餓鬼の生活に陥(おちい)っていく。

責任を持たない
 そしてこのプリーズという言葉がないと、人の心を思いやるという、それがない。これが畜生の生活ですね。この畜生の意味は、傍生(ぼうしょう)ということなのです。
 これは、少し批判が出ておりますが、人間は動物をいわゆるペットにしてしまった。ペットになった動物は、自分ひとりで生きていけない。自分の力で生きるそういう野性を、人間が奪い取って、そして人間のところで養われなきゃ生きられないようにしている。
 そして、こういうたとえに使うのはけしからんと叱られるのですけど、畜生という言葉で言おうとしていることは、いつも自分に責任も持たずに周りにばかり注文を付けて、周りにもたれかかって生きておる。これを畜生というわけですね。
 ですから不能自立、自立することあたわずという言葉で説かれてございます。自分で立てない、自立して生きていけない。いつも、もたれかかって生きておる。そういうあり方を畜生と。これも今日ですね、いよいよやはりそういうあり方というものが表に出てきておるわけでございます。
 自分で努力することなしに、周りに要求していく。周りが言うことを聞いてくれないと、それこそジタンダ踏んでわめき散らすという、思い通りにならないと耐えられない。そういうあり方を、畜生と、こう言うんでしょう。そしてそこでは、周りの人の気持ちを思い測るという心がまったく欠けてしまっておる。
 つまり、プリーズという言葉がない。プリーズという言葉がないときには、そのあり方はけっきょくお互いが自分の都合しか考えていない。そして、その周りの人々を受け止め、そして一緒に生きていこうと。そのために、心を尽くすと、そういうことがまったくない。そういう生活になっていく。

そこに、先ほど最初に申しました犬飼美智子さんが、この三つの言葉さえほんとうに心から自然と口に出る。そういうあり方をしておれば、どういう国の、どういう民族の人に出会っても、まず人間としての出会いというものは成り立つのだ。
 だけど、この三つの言葉を失ったときにはたとえ家族であっても、そこにはほんとうの出会いはない、そういうことがいわれる。そういうほんとうの出会いのない生活を、三悪趣(さんまくしゅ)という。仏教はこういう言葉で教えてきてくださった。