MM あなたの命ですよ

 もう何十年も前のこと(1985年ごろ)、胃の集団検診を受けた結果、精密検査への呼び出しがきた。あの恐怖の「胃カメラ」を飲まされると思うと足が重い。というのはそれ以前に胃カメラで胃の中が血だらけになったことがあったからだ。何とかカメラだけは逃れようと口実を考えながら県立成人病センターへ行く。
 予診の看護婦さんに、ああだ、こうだとダダをこねまわす。しかし、さすがは年季の入った看護婦さんだ。
 「せっかく休暇を取って精密検査にみえたのだから、一番よく分るカメラにしましょう。うちの主人なかもそれで助かったんですよ」と懇切に説得してくれる。
 「でも、なんとかバリュームですみませんか・・・」とさらに食い下がった途端、 「じゃ勝手にしてください! 私が何のためにこう言っているのか分っているんですか? あなたの命のためなんですよ!」
 「・・・・」
 脳天への一撃! 勝負はついた。もうぐうの音もでない。ただ謝って、素直にカメラを飲み、九本のピアノ線が生検細胞をとる音を聞く。
 一ヶ月後初期胃ガンの宣告ー手術ーそして五年生存の関門突破を経て、今日の私がある。
 「あなたの命のためなんですよ!」 私はN看護婦さんのこの一言に救われたのである。自分自身の命のことでありながら、看護婦さんのためにカメラを飲んでやるような思いでいたのであろうか、この愚かな私は! だれかに恩着せして私は生きていたのであろうか。思いかえすも恥かしいかぎりである。
 あなたの命ー私の命。その命とはそもそも何であろう。地球上には五五億~六〇億、日本には一億二千万人もの人間がいる。あなたや私の命一つぐらいあってもなくても、人類の流れには何の影響もない。世の中が変ったりはしない。家族でさえも、涙が乾けばそれなりにやっていく。それでも、私はだれかのために生きてやっているのだろうか。
        
(出典 藤枝宏壽『ぐんもうのめざめ』)
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