KB 漸頓の漸

『親鸞聖人御消息』13(『浄土真宗聖典』第二版764-765頁)の文中、太字部は誤記であろうと思われる。

「また弥勒とひとしと候ふは、弥勒は等覚の分なり、これは因位の分なり、これは十四・十五の月の円満したまふが、すでに八日・九日の月のいまだ円満したまはぬほどを申し候ふなり。これは自力修行のやうなり。われらは信心決定の凡夫、位〔は〕正定聚の位なり。これは因位なり、これ等覚の分なり。かれは自力なり、これは他力なり。自他のかはりこそ候へども、因位の位はひとしといふなり。また弥勒の妙覚のさとりはおそく、われらが滅度にいたることは疾く候はんずるなり。かれは五十六億七千万歳のあかつきを期し、これはちくまく(竹の内側についている極めて薄い膜)をへだつるほどなり。かれは漸・頓のなかのの誤記か?蓮位による写し間違いであろう)、これは頓のなかの頓なり。滅度といふは妙覚なり。曇鸞の『註』(論註・下)にいはく、「樹あり、好堅樹といふ。この木、地の底に百年わだかまりゐて、生ふるとき一日に百丈生ひ候ふ」(意)なるぞ。この木、地の底に百年候ふは、われらが娑婆世界に候ひて、正定聚の位に住する分なり、一日に百丈生ひ候ふなるは、滅度にいたる分なり、これにたとへて候ふなり。これは他力のやうなり。松の生長するは、としごとに寸をすぎず。これはおそし、自力修行のやうなり。また如来とひとしといふは、煩悩成就の凡夫、仏の心光に照らされまゐらせて信心歓喜す。信心歓喜するゆゑに正定聚の数に住す。信心といふは智なり。この智は、他力の光明に摂取せられまゐらせぬるゆゑにうるところの智なり。仏の光明も智なり。かるがゆゑに、おなじといふなり。おなじといふは、信心をひとしといふなり。歓喜地といふは、信心を歓喜するなり。わが信心を歓喜するゆゑにおなじといふなり。くはしく御自筆にしるされて候ふを、書き写してまゐらせ候ふ。」
 
p.765 5行目         
  漸頓のなかの、これは頓のなかの頓なり
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  漸頓のなかの、これは頓のなかの頓なり
                   
※「これは蓮位が親鸞聖人の書を書き写したときの誤記であろう」と註釈をつけるとよい。

【理由】                 
 かれ=弥勒・・・「弥勒の妙覚のさとりはおそ          く」(同頁2行目) 
 これ=「われらが滅度にいたることは疾く」(同     頁3行目)>
 この対比から見て、上記の誤記は明白。 ただ、それが聖人の御消息だから、「金科玉条」で、誤記でも直せないと思われたからか、あるいは文脈上での誤謬に気づいていないからか、『真宗聖教全書』2でも、『定本親鸞聖人全集』でも「誤記」のまま印刷されている。
 しかし、当該の文章は蓮位が聖人の文を書き写したものである(cf. 764頁の脚注/766頁3行「くはしく御自筆にしるされて候ふを、書き写しまゐらせ候ふ。」)から、蓮位が聖人の正記「漸頓のなかの漸」を「漸頓のなかの頓」と書き写し誤ったままになっているのであろうと推測できる。
 誰の誤記であろうと、文脈からみて「誤記」であれば、「正記」を注で示すのが「テキスト」としての『聖典』のあり方だと思う。

(出典 藤枝宏壽 聞法メモ 『浄土真宗聖典』第二版)
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