KB 毒矢の譬え

お釈迦さまとその弟子たちが精舎で求道と生活をひとつにして営みを続けていた頃のお話。

当時、釈迦教団ではない修行者、導師たちの間で盛んに議論されていた形而上的な問いがあった。
その問いとは
「この世の中は永遠に存在するのか、しないのか。
この世の中は無限に広がっているのか、いないのか。
霊魂と肉体とは同じものなのか、別なのか。
人間は死んだ後も存在し続けるのか、しないのか。」

お釈迦さまの弟子の一人であるマールンクヤもこの問いの答えを知りたくてたまらなかった。

しかし我が師、お釈迦さまは、それらの問いについては一切説かれず、問いかけてもいつも黙したままであった。

ひとり離れて瞑想していたマールンクヤは不満の炎に包まれた。
マールンクヤは、瞑想を解き、お釈迦さまの所に行き、意を決して問うた。
「先生は世界の常・無常、世界の有辺・無辺等の問題については、何も説かれず、問うても答えを下さらない。
わたしはそれが不満で堪えられない。もし今、お答え下さらなければ、私はここでの修行を捨てて、世俗に還ります。先生、もし世界は常住と知っておられるのであれば、そう説いて欲しい。
もし世界は無常と知っておられるなら、そう説いて欲しい。もしまた世界は常住とも無常ともお知りならないのであれば、私は知らないと説かれるべきだ。」

お釈迦さまは静かに言われた。
「マールンクヤよ、わたしはかつてそなたに、この問題について答えるから、私のもとに来て修行をしなさいと言ったことがあっただろうか。」

マールンクヤは言った。「いいえ。そのようにはおしゃらなかった。」

そこでお釈迦さまは、ある喩えをもってマールンクヤに説かれた。

「ある男の体に、どこからか飛んできた毒矢が刺さった。友人たちはあわてて医者を呼んで来て、矢を抜き、治療をしてもらおうとした。
しかし矢が刺さつた男は、その時、治療しようとする医師を止めて、こう言った。
『矢を抜く前に聞きたい。矢を射た人間は誰か、どこの種族か、背が高いのか低いのか。矢羽は何で作られているのか。それらがわかるまでは、この矢を抜かせない。』」
マールンクヤよ、こんなことを言っている間に、この男はその問いの答えを得ずして命を落とすだろう。

お釈迦さまは、厳しい眼差しで、マールンクヤに深く語った。

この男こそ、そなたの姿である。

今大事なことは、私たちが苦悩、煩悩をを克服し、心豊かに生きることにあるのだ。
なのにそなたはそれらの問いに拘り続ける。

マールンクヤよ、世界は常住であるとか、また無常であるとかが解っても、
生老病死、怨憎会苦、不求不得、四苦八苦からから自由になる事はないであろう。
私たちはそれらの一切皆苦の現実、自らの煩悩を克服する事を願っている。

それ故に、マールンクヤよ、私が説かないことは、説かれぬままに受持せねばならない。
私の説いたことは、説かれたままに受持せねばならない。

マールンクヤよ、私は世界の常・無常、有辺・無辺などのことは説かない。
何故説かないのか。それは、道理の把握に役立たず、正道の実践に役立たず、
悟りに役立たぬからである。その故に、私は説かないのである。

マールンクヤよ、それでは、私の説いたものとは何であろうか。
『人生、この世の一切は苦』と私は説いた。
『苦の原因は人間の執着にある』と私は説いた。
『苦を滅した境地が悟りである』と私は説いた。
『悟りに到達する方法は八正道である』と私は説いた。

ではなにゆえにわたしは、それらのことを説いたのであろうか。
それは、道理の把握をもたらし、正道の実践に基礎をあたえ、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立つからである。

マールンクヤよ、その故に、わたしの説かないことは、説かれぬままに受持するがよい。
わたしの説いたことは、説かれたままに受持するがよい。」

お釈迦さまは、このようにマールンクヤに説かれた。

マールンクヤは己が愚かさを涙と共に自覚し、以後師の教えを一心に求めるものとなったという。

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差別、貪り、卑下、猶予、不満などの煩悩の矢が心に刺さったままのこの私が、それでも私が正しいと言い、他人と競い争う。愚かなものは鏡に映る「この私」ではないかと、このお話を聞いて思いました。
マールンクヤは他ならないこの私という事ですね。
無明を知らぬ恥ずかしいこの私。

(出典 南伝大蔵経 第十巻 222-228頁)
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  苦悩の事実