IN 大いなるみ手

◎いだかれてありとも知らずおろかにも
われ反抗す 大いなるみ手に
             九條武子

原著 『無憂華』(実業之日本社 一九二七年)
「幼児のこゝろ」
  幼児が母のふところに抱かれて、乳房を哺くんでゐるときは、すこしの恐怖も感じない。
 すべてを托しきって何の不安も感じないほど、遍満してゐる母性愛の尊きめぐみに、跪かずにはをられない。

  いだかれてありとも知らずおろかにも
 われ反抗す 大いなるみ手に

  しかも多くの人々は、何ゆゑにみづから悩み、みづから悲しむのであろう。救いのかヾ
 やかしい光のなかに、われら小さきものもまた、幼児の素純な心をもって、安らかに生きたい。大いなる慈悲のみ手のまゝ、ひたすら
 に久遠のいのちを育みたい。ーー大いなるめ
 ぐみのなかに、すべてを托し得るのは、美しき信の世界である。


◎大いなるものの力に
《『無憂華』の冒頭》
http://www.j-texts.com/showa/muyuy.html

  九条武子著
  無憂華

  おほひなるものゝちからにひかれゆくわか  あしあとのおほつかなしや   たけ子

  序
   風に吹きよせられた、落葉のひと片ごと  にも、思ひ思ひのなごりはこもる。この書  は、芽ぐみ、そだち、かつ散つた、私の心  の落葉をかきあつめたにすぎぬ。あまりに  価もなく美しさもない、ささやかな姿であ  る。ただ私の心を知る人が、もしや拾ひあ  げて下さらば、これにこしたことはない。
   父が逝いてことしは廿五年になつた。私  のをさない日から、すでに指示してくれら  れた道を私はつつましい気もちで今日まで、  あやまらず進んで来たのであつた。今この  書を廟前にささげて、亡き父と語りたいと  思ふ。
   昭和二年六月
   九条武子

   装幀    著者
   自画像   同上
   色紙    同上
   無憂樹の花 同上
   写真    七葉

  無憂華 目次
 無憂華
 おん母摩耶………………………………三
 悠久なる啓示……………………………五
 物言ふ小鳥………………………………六
 春の行列…………………………………七
 幼児のこゝろ……………………………八
 地上の愛…………………………………九
(以下略)

(出典 九條武子 『無憂華』(実業之日本社    一九二七年)筆者 書名等)
【キーワード】 大いなるみ手 慈悲のみ手
    母性愛 幼児 素純 全托  反抗
      
【参考】Wikipedia
九条 武子(くじょう たけこ、1887年(明治20年)10月20日 - 1928年(昭和3年)2月7日)は、教育者・歌人、後年には社会運動活動家としても活動した。
 西本願寺第21代法主・明如(大谷光尊)の次女(母・藤子は光尊の側室で紀州藩士族の子女)として京都で生まれる。義姉・大谷籌子裏方(大谷光瑞夫人)を助けて仏教婦人会を創設し、1911年(明治44年)に籌子が死去した際には本部長に就任、同会運営の重責を果たした。

仏教主義に基づく京都女子専門学校(現・京都女子学園、京都女子大学)を設立、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で自身も被災するが一命を取りとめ、全壊した築地本願寺の再建、震災による負傷者・孤児の救援活動(「あそか病院」などの設立)などさまざまな事業を推進した。

佐佐木信綱に師事して和歌にも長け、『金鈴』『薫染』などの歌集がある。愛唱されている仏教讃歌の「聖夜」は、1927年(昭和2年)7月に出版された随筆『無憂華』の中に収められている。「聖夜」の作曲は、中山晋平で、歌詞は七五調で構成され、夜空に輝く美しい数多の星のようにおわする仏たちに護られて生きていることの歓喜と安らぎが表現されている。

1928年(昭和3年)2月7日、震災復興事業での奔走の無理がたたり、敗血症を発症して東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町原宿の病院において、42歳で念仏のうちに往生した。法名は厳浄院釈尼鏡照[1]。宗門では、武子の命日を如月忌(きさらぎき)と呼んでいる。