IN 吉野秀雄の歌

うつし身の孤心の極まれば歎異の鈔に縋らまくすも           (早梅集)
真命の極みに堪へてししむらを敢てゆだねしわぎも子あはれ
これやこの一期のいのち炎立ちせよと迫りし吾妹よ吾妹
ひしがれてあいろもわかず堕地獄のやぶれかぶれに五体震はす
今生のつひのわかれを告げあひぬうつろに迫る時のしづもり        (寒蝉集)
たなうらにみ墓をさすりつつゐたり堪へねばわれはかくのごとしつ
死を厭ひ生をも懼れ人間の揺れさだまらぬ心知るのみ
わが庭に今咲く芙蓉紅蜀葵眼にとめて世を去らむとす
青葉木菟夜更けになくを冥々の彼土の声とし聞くはわれのみか       (含紅集)

<妻はつ子病死の後>
手抱(むだ)ける汝が骨壺に温みあり山をとよもす秋蝉のこえ
ひしがれてあいろもわかず堕地獄のやぶれかぶれに五体震はす
死ぬ妹が無しとなげきし彼岸を我しぞ信ず汝(なれ)と吾(あ)がため
        
(吉野秀雄 )
【キーワード】愛妻 死別 彼岸 信心 
吉野秀雄(1902-1967)
明治35年7月3日ー昭和42年7月13日 65歳 (艸心洞是観秀雄居士) 
鎌倉・瑞泉寺に墓。

「もしも自分に歌がなく、自分の歌が自分の精神を昂揚することがなかったならば、どうして自分に今日の存在があったらうか。」と感慨するように、詠み出された歌は、戦時下での妻はつ子との死別、生涯を通しての宿阿肺患との闘いなどに苦しみながら、己の全精力を注ぎ込んだ所産であった。昭和42年のこの日、詩人八木重吉未亡人であった二番目の夫人登美子に見守られ、鎌倉の自宅近くの雪の下教会から聞こえてくる正午の鐘の音につつまれて、心臓喘息の発作により亡くなった。