IN 浜までは

「浜までは 海女も蓑着る 時雨かな」(滝瓢水)
 
 入門を請いに瓢水の庵を訪ねた一人の修行僧。
 そこで目にしたのは、「風邪気味で町まで薬を買
いに行っている」という置き手紙。
 「風邪を引いたぐらいで薬を求めにいくなんど、 
悟りを開いたと言われる瓢水だがこの程度か…」
 と思いながら、瓢水の帰りを待ち、その思いをそ
のまま瓢水に投げかける。

 そこで瓢水が詠んだのがこの句と言われている。

 海女はやがて海に潜り水に濡れる。しかし時雨
は身体を冷やす、せめて浜までは身体を冷やすま
いと蓑を着て身を厭うではないか。

 風邪気味で薬を求めるこの瓢水を意気地の無い
と責めるなら責めるがよい、しかしこの瓢水の身体
も仏に成る身、せめてその時まで大切に大切にし
ていきたい。

■参考 
なにわ人物伝 -光彩を放つ-
滝 瓢水
奇行重ねた異色の俳人  
2005/12/03
三善 貞司

 瓢水は風狂(風雅の道に徹すること)といえば
聞こえはいいが、奇行を重ねたあげく家産を破り、
大坂で客死した異色の俳人である。

 彼は貞享元(一六八四)年、別府(べふ)村
(現・加古川市別府)に生まれた。父は運輸業
「叶屋」の主人の三代滝新右衛門政清、母はお
さん。その一粒種で幼名新之丞、のちに四代
新右衛門有恒と称し、俳号に瓢水のほか富春
斎や自得庵などがある。

 七つのとき父新右衛門が死亡。祖父の二代
新右衛門清春に育てられるが、かわいらしい
孫を溺愛(できあい)、家業はわしにまかせろ
と母おさんの兄で学者の福田貞斎に預け、好
きなだけ学問させる。貞斎は俳諧も好み新之
丞に手ほどきしたところ、十九歳のとき井上千
山の撰集「当座払」に入集した。千山は臨終の
芭蕉が形見の笠と蓑(みの)を与えた維然の弟
子で、蕉風俳諧の宗匠。この若さで入集すると
は大したものだとほめちぎられ、天狗(てんぐ)に
なった。

 俺は芭蕉先生のように諸国を歩いて俳諧三昧
(ざんまい)に生きたいと瓢水は、気ままな旅に出
るが、芭蕉と違って金はうなるほどある。京や大
坂の花柳界に入りびたって豪遊、遊女が香をた
いているのを見て俺もやろと財布を火鉢の上で
広げ、小判や小粒が音をたてて火種に落ちるや、
さあ拾え、拾ったものに全部やると、熱い熱いと
騒ぐ遊女たちを尻目にお大尽(遊び好きの資産
家)ぶる。

 東海道筋では哀れな親子の物もらいに同情、
有り金残らずやって幼子の頭をなでて去り、次
の宿場で得意になって話す。あるじからあほい
わんとき、あら芝居や。赤ん坊借りてきて同情
をひく商いやぞと言われると、ほほう、そうか…
いや、こら商いの道を教わった、あの親子に感
謝せねばと言ったという。

 正徳元(一七一一)年、祖父清春がドラ孫の
だらしなさに切歯扼腕(せっしやくわん)しながら
死亡する。叶屋の経営は番頭どもがとりしきるが
瓢水には要るだけ金を届け、後は好き勝手放題、
さしもの大店も傾きはじめ、享保十八(一七三三)
年、母おさんが死亡したときは、空っぽの蔵が
たった一つ残るだけであった。

 どあほの瓢水が慌てて帰郷したときは、とっくに
母の葬儀は終わっており、親類の怒号を浴びな
がら墓前にひざまづく。かつては千石船五艘(そう)
も持っていた叶屋が、蔵一つになったことに顔色
さえも変えなかった瓢水だが、地面に額をこすり
つけて顔をあげることができなかった。道楽の限り
を尽くしても、恨みごともいわず、甘やかし続けた
母である。有名な彼の代表句「さればとて石にふ
とんは、着せられず」は、このときの句だ。

 もうひとつ句に関するエピソードを紹介する。あ
るとき後徳大寺(藤原実定。定家のいとこ・歌人)
の「ほととぎす鳴きつるかたを眺むればただあり
あけの月ぞ残れる」(百人一首で知られる)を俳諧
に直せるかといわれ、即座に「さてはあの月が鳴
いたかほととぎす」と詠み、周りを絶句させる。また
彼は須磨の佳景を好み、「ほろほろと露そふ須磨
の蚊遣(かやり)かな」「本尊は釈迦か阿弥陀かも
みぢかな」の秀句を残している。後者の句碑が禅
昌寺(神戸市須磨区)に立つ。

 瓢水は何度も大坂を訪れる。松木淡淡(一六七
四-一七六一年)と親しかったからだ。淡淡は芭蕉
・其角の流派を継ぐ蕉風派の俳人と自称し、「半時
庵」という俳諧グループの宗匠だが、富と権力にお
もねり、高額の指導料をとって句商人(あきんど)と
呼ばれたぜいたくな男でもある。その淡淡と破滅型
の瓢水がどうして気が合ったのかは分からないが、
互いに相手の句を褒めちぎり、親交を結んでいる。
あるとき淡淡の門人が妓楼に通いだし、気の進まぬ
太夫を大金積んで無理に身請けしようとした。このと
き瓢水が彼をたしなめた句が、人口に膾炙(かいしゃ)
した「手にとるなやはり野に置けれんげ草」である。

 こんな人生哲学じみた句を詠むくせに、経済観念の
なさは変わらぬ。ひどい暮らしぶりをみかねた画家如
流が、十数本の白扇に俳画を描き、これを売ったら
金になると与えた。数カ月後みすぼらしい着物姿の
瓢水を見掛け、扇は売れなかったかねと尋ねると、
「へえ、ふろしきに包んで売りにいく途中、橋から落ち
て川にはまり、みんな破れました」と、ぬけぬけ答え
たという。

 宝暦十二(一七六二)年、五月大坂で没。享年七
十八。淡淡が他界した翌年にあたる。遺骸(いがい)
は持明院(大阪市天王寺区生玉町)に埋葬、境内に
今も墓碑が残る。(地域史研究者)      

   
(出典 天声人語220214に話題、其の他ネット)
【キーワード】 「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明
無闇」 信後の人生 娑婆のこと 俗諦

【参考】
 外山滋比古(『マイナスのプラス』)
「最後の最後まで、生きるために力をつくすのが
美しい・・・浜まで身を大切にする人は、海に入って
からもいい働きをする」
「〝どうせ××だから〟との判断は人生を小さくする」