HY 磨塼作鏡=変わらぬ凡夫=

江西の馬祖道一(七八八年寂)(ばそどういつ)が南嶽懐譲(七四四年寂)(なんがくえじょう)のもとで修行していたとき、南嶽が密かに心因を馬祖に得させた。これが磨塼(ません)の故事の由来だ。と道元は言って、こんな会話をしるす。

馬祖はつねに坐禅にはげんでいたが、まだわずか十年をへたときのこと、南嶽がふいに馬祖の庵を訪れ、馬祖はつつしんで師を迎えた。

南嶽「お前は近日(ちかごろ)何をしているか」
馬祖「近日わたしは只管打坐(しかんたざ)【ひたすら坐禅】するのみです」
南嶽「坐禅して何をしようとしている」
馬祖「坐禅して作仏(仏になる)を志しています」

すると南嶽は一片の塼(せん:瓦)を持ってきて、
馬祖の庵のそばの石にあてて磨き始めた。

馬祖「和尚、何をしておいでです」
南嶽「塼を磨いておる」
馬祖「塼を磨いて何をなさろうというんです」
南嶽「磨いて鏡にする」
馬祖「塼を磨いて、どうして鏡とすることができましょうや」
南嶽「坐禅して、どうして作仏することができようや」

常識で考えれば、いくら瓦を磨いたところで、
瓦が鏡になることはありえない。だが、それが不可能なら、どうしてお前坐禅をして作仏できるのだ、と問い返したところに、南嶽の渾身の力が発揮されている。
坐禅と修証(さとり)のあいだに必然的な
つながりはないにもかかわらず、坐禅なしに修証はない。
坐禅がすなわち修証なのである。瓦を磨く行為が鏡となる道なのである。

そして最後に道元はこう記して「古鏡」の説法を終えている。
 いまの人も、いまの塼を拈じ磨してこゝろみるべし、さだめて鏡とならん。
塼もし鏡とならずは、人はほとけになるべからず。
塼を泥団(でいとん)なりとかろしめば、人も泥団なりとかろからん。
人もし心(しん)あらば、塼も心あるべきなり。
たれかしらん、塼来塼現の鏡子(きんす)あることを。
又たれかしらん、鏡来鏡現(きんらいきんげん)。
(古鏡)

美しい言葉である。この言葉は人をはげます。
          道元断章 中野孝次

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ぼくもあなたも「泥」のかたまりです。なるべく楽をしようとして、人をうらやんで 人をねたんで、不平不満をもらして、嘘をついて、人を泣かせて・・・
泥だらけです。泥を固めて作った「瓦」のようなものです。
でもぼくたちは「鏡」になろうとする。
少しでも心をきれいにして光を返そうとします。
 でも、いくら磨いても「瓦」は「鏡」にはならんのです。
 しかし、道元はその不可能な一心不乱の行為そのもの、坐禅を組んだり、修行を続ける人間の行為そのもの、それこそが尊いのだ。と語っています。

泥で出来た人間というものは、いくら磨いても
仏にはならないのかもしれない。しかし仏に近づこうとするその行為そのものが、ぼくたちを包み込んで光らせる。

それを仏とよぶのでしょうか。

(出典 筆者
道元断章 中野孝次
 ブログ『北麓通信』(富山)
【キーワード】 瓦 磨く 鏡 無心修行
        禅 道元 馬祖 南嶽

参考
 生涯泥凡夫の私を、そのまま救い取ってくださる阿弥陀如来の本願名号。まさに「不断煩悩」
のまま「得涅槃」の世界です。
 親鸞聖人はこれを「能令瓦礫変成金」とよろこばれました。

『唯信鈔ゆいしんしょう文意もんい』を撰述されました。これは、安居院あぐい聖せい覚法印かくほういんが撰述された『唯信鈔』に引用された経釋の要文を抜き出して、一般の人々にも心得やすいように撰述されたもの。その中に次のような一節があります。
【原文】
 ひとすぢに具ぐ縛ばくの凡ぼん愚ぐ・屠沽とこの下げ類るい、、 無礙むげ光こう仏ぶつの不可ふか思議しぎの本願ほんがん、 広大こうだい 智慧ちえの名みょう号ごうを信しん楽ぎょうすれば、 煩悩ぼんのうを具ぐ足そくしながら無む上じょう大だい涅ね槃はんにいたるなり。 具ぐ縛ばくはよろづの煩悩ぼんのうにしばられたるわれらなり。 煩ぼんは身みをわづらはす、 悩のうはこころをなやますといふ。 屠とはよろづのいきたるものをころし、ほふるものなり。 これはれふしといふものなり。 沽こはよろづのものを、うりかふものなり。これは、あき人びとなり。 これらを下げ類るいといふなり。

能のう令りょう瓦が礫りゃく変へん成じょう金こん」 といふは、「能のう」 は、よくといふ。 「令りょう」 は、せしむといふ。 「瓦が」 は、かはらといふ。 「礫りゃく」 はつぶてといふ。 「変へん成じょう金こん」 は、 「変へん成じょう」 はかへなすといふ。 「金こん」 は、こがねといふ。 かはら・つぶてをこがねにかへなさしめんがごとしと、たとへたまへるなり。 れふし・あき人びと、 さまざまのものはみな、 いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。

【現代文】
 それは、具縛の凡愚・屠沽の下類も、 ただひとすじに、 思いはかることのできない無礙光仏の本願と、 その広く大いなる智慧の名号を信じれば、 煩悩を身にそなえたまま、 必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。 「具縛」 とは、 あらゆる煩悩に縛られているわたしたち自身のことである。 「煩」 は身をわずらわせるということであり、 「悩」 は心をなやませるということである。 「屠」 は、 さまざまな生きものを殺し、 切りさばくものであり、 これはいわゆる漁猟を行うもののことである。 「沽」 はさまざまなものを売り買いするものであり、 これは商いを行う人である。 これらの人々を 「下類」 というのである。

「能令瓦礫変成金」 というのは、「能」 は 「よく」 ということであり、 「令」 は 「させる」 ということであり、 「瓦」 は 「かわら」 ということであり、 「礫」 は 「つぶて」 ということである。 「変成金」 とは、 「変成」 は 「かえてしまう」 ということであり、 「金」 は 「こがね」 ということである。 つまり、 瓦や小石を金に変えてしまうようだとたとえられておられるのである。 漁猟を行うものや商いを行う人など、 さまざまなものとは、 いずれもみな石や瓦や小石のようなわたしたち自身のことである。