HY 事実と真実
 「事実は真実の敵である」これはセルバンテス作『ドン・キホーテ』(ミュージカル『ラ・マンチャの男』)の台詞である。
 この解釈にはいろいろある。
A 「真実はいつでも一つ(絶対普遍的)
  vs 事実は沢山ある」
  (一つの真実も百通りの事実になる)
 「一番憎むべきは、都合のよい事実だけに折り合いをつけて、真実を求めようとしないことだ」
B 「真実は複数あるが、事実は一つしかない。」
  なせなら、真実は事実に対する人の評価(真偽)を伴う・・・信念・信義)
  ・・・真実は人の事実認識により異なる。
C 「事実はその時代の知識によって変更される が、真実は変わることがない」
  ・・・事実=世の中が認めた事柄
    真実=本当の事柄
D 「現象(過去)は真理を覆いかくす」
  「事実は限定的であり、事実によってその裏 に潜む偉大な真実を見逃してしまう」
  「ある現象を事実として受け入れてしまう と、真理が見えなくなってしまう。真理よ り事実を優先的に認めてしまうことになる」
  「事実はたとえ限定的条件において正しくと も、背後にある普遍的な真実からは程遠い」
  「我々は毎日おびただしい断片的事実にさら されて、現実社会への埋没を迫られる。 あるいは虚構の世界へ逃避していく」
  「賢者は文化を尊び、愚者は文明に従う。今世紀は『文化を尊ぶ文明』をつくるべきで、近未来の科学技術開発には、文化的統治が不可欠である・・・科学者や技術者は謙虚   に人文学、芸術に学び、さらにそれを含む文化全体の発展に寄与すべきだと考えている。」(野依良治)(p.343)

(出典 野依良治『私の履歴書』 )
【キーワード】 
事実 現象 真実 意義 文明 文化

参考
 ㈠  広辞苑
じ‐じつ【事実】
①[史記(荘子伝)]事の真実。真実の事柄。本当にあった事柄。「―関係」「―を曲げる」「―上の支配人」
②〔哲〕(factum(ラテン)・fact(イギリス))本来、神によってなされたことを意味し、時間・空間内に見出される実在的な出来事または存在。実在的なものであるから幻想・虚構・可能性と対立し、すでに在るものとして当為的なものと対立し、個体的・経験的なものであるから論理的必然性はなく、その反対を考えても矛盾しない。
③(副詞的に)ほんとうに。じっさい。「―僕は何もしゃべっていない」
  
しん‐じつ【真実】
(シンジチとも)
①うそいつわりでない、本当のこと。まこと。今昔物語集(5)「若し―の言(こと)を致さば我が身本の如く平復すべし」。「―を語る」
②(副詞的に)ほんとうに。全く。「―驚いた」
③〔仏〕仮(かり)でないこと。究極のもの。絶対の真理。真如。

㈡ 親鸞聖人
「真実は阿弥陀如来の御こころなり」
「真実と申すは、如来の御誓いの真実なるを申 すなり」
「真実・・・(左訓)しんといふはいつはりへつらはぬを真といふ。じちいふはかならずもののみとなるを実といふ」(浄土和讃)
  cf.親鸞著述中 使用頻度
如来 518回、浄土 368回、真実 318回、    念仏 285回、涅槃 237回、本願 228回、    名号 127回、智慧 105回、慈悲 44回。
          

参考『群萌』への寄稿
 真実は事実を救う                        藤枝宏壽
         (越前市押田 了慶寺)
 2001年ノーベル化学賞を受賞された野(の)野(の)依(より)依(より)良(りよう)良(りよう)治(じ)治(じ)博士に『事実は真実の敵である』という著書があるのを知り、読んでみて驚きました。その題名は、あの騎士道かぶれのドンキホーテの台詞(せりふ)台詞(せりふ)だとのこと。しかし、「事実は限定的であり、事実によってその裏に潜む偉大な真実を見逃してしまう」とか「賢者は文化を尊び、愚者は文明に従う」など、博士は、「事実」に終始しがちな科学者は謙虚に人文学・芸術などの文化に「真実」を学ぶべきだと、題名通りの主張をされています。
 ところで、「事実」と「真実」とはどう違うのでしょうか。『三省堂国語辞典』によりますと
 じ じつ【事実】(名)
 ①実際に起こったことで、その人の気持ちや考えだけでは動かすことのできないことがら。
 ②〘法〙それが あったか なかったか、証拠にもとづいて判断できることがら。
 しん じつ【真実】(名)
 ほんとうのこと。ほんとうであること。まこと。
と出ています。
 先の本の題名「事実は真実の敵である」について、インターネットでみるといろんな解釈がなされています。
《A》真実はいつでも一つ(絶対普遍的)だ が、事実は沢山あり、一つの真実も百通り の事実となることがある。一番憎むべき  は、都合のよい事実だけに折り合いをつけ
 て、真実を求めようとしないことだ。
《B》事実は一つであってもそれに対する人 の評価(真偽・信念ー真実)は様々である。
《C》事実はその時代の知識によって変更さ れるが、真実は変わることがない。
どうやら、人によって「事実」「真実」の解釈は違っているようですが、よく見ると、事実は目の前に現れている、動かすことのできない具体的な事柄で、誰にも分かること。真実は、その事実が生じた因(もと)因(もと)を抽象的に述べたもの、あるいは、その事実から読み取れる普遍的な思想だといえないでしょうか。
 今、こうして私が事実と真実にこだわっているのは、実は、親鸞聖人が「真実」を大変重視されているからです。聖人の主著の『顕(けん)顕(けん)浄土真実教行証文類(じようどしんじつきようぎようしようもんるい)浄土真実教行証文類(じようどしんじつきようぎようしようもんるい)』をはじめ聖人のお書き物の中で「真実」という言葉は実に三一八回出てきます(因(ちな)因(ちな)みに「本願」は二二八回、「念仏」は二八五回)。そして「真実は阿弥陀如来の御こころなり」(一念多念証文)と申されています。その如来の御心とは「真(しん)真(しん)といふは偽(いつわ)偽(いつわ)り諂(へつら)諂(へつら)はぬを真という。実(じち)実(じち)といふは必ず物(もの)物(もの)(物とは衆生のこと)の実(み)実(み)となるをいふなり」(浄土和讃・左訓)ということでしょう。
 真宗聖典には「事実」という言葉は出てきませんが、「偽り諂う」というのが我々衆生(物)の煩悩の日暮し。だから五濁悪世という苦の娑婆の現実から逃れられないのが「事実」に当たるようです。その事実(曇鸞大師のお言葉では「衆生虚(こ)虚(こ)妄(もう)妄(もう)の相(そう)相(そう)」)を憐れまれて、なんとか救うてやりたい、何とかそういういう衆生に、人間としての真の生まれ甲斐を与えて「実(み)実(み)となる」人生を全うさせてやりたいと願われているのが「如来の御心・真実」なのだといただいています。
 ところが私達はともするとその苦の「事実」に気づかない。気づいても「自分の気持ちや考えではどうすることもできないこと」だから泣きわめいたり、腹を立てたり、人が悪い、世の中が悪い、何で私だけが・・・と愚痴ったりする。それが嫌だから事実から目を背(そむ)背(そむ)けようとするのではないでしょうか。
 こうして苦しむからこそ、阿弥陀如来は智慧と慈悲の名号、声の仏となって「あなたを救う如来が、ナム(モ)アミダブツとここにきているよ。どうかお念仏申して、この如来とともに浄土に生まれてくれよ」と、私達の苦に寄り添いながら喚びづくめに喚んでいてくださる。これが如来の真実です。
 私たちの「苦」の「現実」は、苦に寄り添う如来の「真実」によってこそ救われていくのだと、味わっています。
 曲がれるを曲がるるままに涅(ね)涅(ね)槃(はん)槃(はん)西風(にし)西風(にし) 愚