もっと平等                                       
 
 英国のジョージ・オウエルという作家に『動物農場』(1945年刊)
という風刺小説がある。専制的な農場主(人間)を追い出して自治
的な農場経営に成功した動物たちが、また専制政治へと逆行する
過程を描いたものである。「すべての動物は平等である」という当初
の最も大切な「戒」が、最後には動物たちの気がつかないうちに、
権力を握った狡猾な豚によって「すべての動物は平等である。しかし
ある動物はほかの動物よりももっと平等である。」と書きかえらたと
いうのである。
 ここに、人間(動物)の本性が美事に描き出されている。建前は平
等だが、本音は自己増大の欲望だ。平等なら、皆が同じようでなけ
ればならない。それを権力と悪知恵により「他よりもっと多い平等」を
獲得しようという不埒な行動に走る人間の根性が、「もっと平等」と
いう矛盾表現に露呈されている。人間は自己中心的我執・我欲という
悪性から離れられないのである。
 仏教でも「平等」を説くが、その真意はどうか? 浄土和讃にはこう
ある。
  「平等心(びようどうしん)をうるときを  一子地(いつしじ)となづけたり
   一子地は仏性(ぶつしよう)なり   安養(あんよう)にいたりてさとるべし」
真の平等は仏の本性・本質である。人間の本性ではない。仏が真に
平等であればこそ、我々凡愚も救われる。如来は善も悪も、賢も愚も
平等に救われる。差別をされない。差別の世界において、差別を見ら
れず、みな如来の一子(ひとり子)とみそなわすのである。
 「春の日のあまねくそそぐ法(のり)の庭短し長し華やぐ枝の」という歌
がよく仏の平等
心を表す。木の枝の長・短は、一見差別の相である。しかし日の光は
平等にどの枝にも注がれている。どの枝も、みなその光を浴びて活き
活きと華やいでいるというのである。
 差別の世界を包みこんで、どの差別相にも生けるよろこび・救われて
いくよろこびを与えようとするのが,仏の平等心であり、彼岸の世界の
根本精神。その彼岸に至らしめんというのが仏の悲願なのである。