HY もったいない

ノーベル賞学者 田中耕一
「大学入学までいっしょに住んでいた祖母からは、ものを
大切にする精神を受け継ぎました。
幼いころ、紙をくしゃくしゃにして丸めて捨てようとしたら、
祖母から〝耕一、なんちゅうもったいないことをすんがけー。
ばちあたりな。鼻紙に使えるがに〟と怒られました。
 私がノーベル賞をいただくきっかけとなった発見をするこ
とができたのは、間違った薬品を混ぜた試料を〝もったい
ない〟と捨てずに使えたからですが、そう思ったのは、子ど
ものころから耳にたこができるほど〝もったいない〟と言わ
れつづけてきたからです。
 今は私がまわりの人に向かって〝もったいない〟と言う
ことがよくあり、ふとそんな自分に気づくと、祖母を思い出し
て苦笑しています。
若い人たちはあまり使わないようですが、自分のまわりで
も、一日に何度でも聞く言葉です。
〝もったいない〟という良い言葉を含む日本語を捨ててし
まうのは、もったいない!」
              
(出典 田中耕一『生涯最高の失敗』)
【キーワード】 もったいない 物の大切さ
       ノーベル賞 機縁
参考
田中 耕一(たなか こういち、1959年(昭和34年)8月3日 - )
は、日本の化学者、エンジニア。東北大学名誉博士。ソフトレ
ーザーによる質量分析技術の開発で文化功労者、文化勲章、
ノーベル化学賞を受賞。受賞以降も、血液一滴で病気の早
期発見ができる技術の実用化に向けて活躍中である。
 株式会社島津製作所シニアフェロー、田中耕一記念質量
分析研究所所長、田中最先端研究所所長。東京大学医科
学研究所客員教授、日本学士院会員などにも就任している。
 
 幼少期 - 学生時代[編集]
1959年(昭和34年)に富山県富山市に生まれる。出生1か
月で実母が病死したため叔父の家で育てられる。その後、
叔父の家に養子として迎えられる[1]。兄弟は兄2人と姉が
いる。富山市立八人町小学校(現・富山市立芝園小学校)
において、4 - 6年次の担任である澤柿教誠から将来の基
礎を育む理科教育を受ける[2]。富山市立芝園中学校、富
山県立富山中部高等学校を卒業。

東北大学工学部へ進学する。入学時に取り寄せた戸籍抄
本で自身が養子であることを知り、そのショックも手伝い教
養課程在学時に単位を落として1年間の留年生活を送る[1]。
しかし前倒しで専門の勉強に励んだため、卒業時は学科で
上位1割の成績になっていた[3]。指導教授は安達三郎博
士(現・東北大学名誉教授)で、電磁波やアンテナ工学を
専攻した。大学卒業後は大学院へ進学せずソニーの入社
試験を受けるも不合格。最初の面接失敗後に相談した安
達の勧めで、京都の島津製作所の入社試験を受け合格す
る。大学時代については、公には多くの情報がないが、1
年生から、東北大学生活協同組合学生組織委員会に所属
して、組合員の組織活動や情報宣伝、文化レクリエーション
活動を行った。その当時の記録も残されている。

島津製作所時代[編集]

島津製作所入社後は技術研究本部中央研究所に配属さ
れ化学分野の技術研究に従事する。1985年(昭和60年)
にたんぱく質などの質量分析を行う「ソフトレーザー脱着
法」を開発。この研究開発が後のノーベル化学賞受賞に
繋がる。20回以上の見合いの後[4]、1995年に富山の同
じ高校出身の女性[5]と見合い結婚する[6]。英国クレイト
スグループ、島津リサーチラボ出向を経て、2002年(平成
14年)に島津製作所ライフサイエンス研究所主任。

2002年(平成14年)ノーベル化学賞受賞。受賞理由は
「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開
発」。同年文化勲章受章、文化功労者となる。富山県名
誉県民、京都市名誉市民、名誉博士(東北大学)などの
称号も贈られている。受賞当時は島津製作所に勤める
会社員であり、現役サラリーマン初のノーベル賞受賞と
して日本国内で大きな話題となった。その後、同社の
フェロー、田中耕一記念質量分析研究所所長に就任。

参考 ワンガリー・マータイさん(2004ノーベル平和賞
受賞)も「もったいない」の推奨者。