HY ジョハリの窓

ジョハリの窓

高校の英語の教科書を閲覧していて、ふと "TheJohari Windwo" という題名が目にとまった。連想が湧く。まさか、あの「浄玻璃の鏡」のことではあるまいー地獄のエンマ大王の前においてあって、亡者の生前の行為をすべて映し出すというあの鏡のことが、英語の教科書に出るわけはあるまいが・・・と。
 ともかく、興味にかられて読んでみる。すると、これは Joe と Harry という二人の心理学者が、コミュニケーションにおける自己と他者の関係を図式化したものであった。端的にいえば、他人と話合うとき、自己の内部をどの程度出すかということであり、それを図のように四つの枠に分けて考えている。

1の「開かれた窓」では、自分も他人も知っている自己について語られる。住所や職業など公然の事実から、個人的思想や感情にいたるまで、自己を他者の前に持ち出し、自己について他人の意見を聞くー相互に共通の話題で話合うという点で、この窓は対人関係上望ましい領域である。この窓の広い人ほど開放的である、付合いやすいという。しかし、ここで語られる自己がどの程度〝防衛〟 〝演出〟された自己であるかはまた別問題である。
 2の「隠され窓」は、自分では意識しているが、他人からは隠している自己の領域でって、他人はそれを聞きたがり、1の窓に引き出そうとし、自分はどの程度これを出そうかと常に計算している。多くの人の場合、特に深みのある
人ほど、この領域は広い。
 唯、問題は人知れず何を思っているかである。悪事を企むのもこの領域であるが、また反省、内観をするのもこの窓の中である。そういう点で第2の窓も重要である。
 3の「死角の窓」は、他人が知っているのに自分では知らない自己の領域である。例えば、いびいびきとか、自分ではきづいていなくて、他人に見える癖などがこれに属する。私自身に自分には死角になっているこういう自己の一面があると思うと不安である。「世間を鏡とせよ」という警句を思い出し、襟を正さざるをえない。
 しかし、最大の問題は第4の「未知の窓」-あまりにも深く埋められているために、自分にも他人にも知られない自己の領域である。ここは種々の心理テストで垣間見られるというが、私はこれこそ仏教でいう「我執」「根本無明」あるいは「阿頼耶識」だと直感した。
 2の窓で、内省し、内観するといっても、畢竟それは自分で意識できる程度までである。ところが、人間の我執という魔物の正体は、その意識の外にある。2の窓にその片鱗を現し、3の窓にその影を見せるかも知れないが、その本性は、自他共に知ることのできない深淵の中に潜んでいる。だから、無明なのである。人はこの暗黒の第4窓の魔物に支配されて第1~第3の窓で行為し、その行為の熏習(匂い移り)が暗闇の中の魔物(阿頼耶識)を肥やす、そして人はそれに気づかない。だから根本無明なのである。
 しかし、「無明である」と断言、定義することさえもおこがましいのではないか。私自身の無明は私にとっても、他人にとっても未知・不可知であるからだ。ただ、私の第4窓は、四つの窓の中で最も大きく、最も底深いものであろうということを、かすかに感じられる。どこからか光がさしてきているのであろうか。
  〝法身ノ光輪キハモナク
   世ノ盲冥ヲテラスナリ〟

(出典 藤枝宏壽『ぐんもうの目ざめ』法蔵館)
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