HY 業と石

仏教の経典には「業」という語がよく出てくる。業はインドの古い
言葉の「カルマン」の訳語で、元来、行為の意である。

 1982(昭和57)年に発売された三浦綾子の「氷点」は、当時
多くの人に愛読された。その中に「私は罪を犯したことは一度
もない」と豪語する青年に向かって、牧師がそこらに散らばっ
ている小石を四、五十個集めてくるように言う。 集め終わると
今度は、あそこの大きい石を持ってくるように言う。集め終わる
と、それらの石を元の場所に返すように命じる。
 青年は大きい石はすぐ元の場所に返したが、四、五十個の
小石はどこにあったか覚えておらず、返しようもない。
 そこで牧師は言う。人間は大きい罪を犯した時は自覚できる
が、意識することもなく犯した小さい罪、たとえば何の気なしに
嘘をつくといったたぐいの罪はいっばいあるはずだと説く。

 人間の行為は、無意識に自我欲という罪が潜んでいて、その
行為を汚染していることを鋭く見抜いておられたので、翻訳者は
業という言葉を用いずにはいられなかったに違いない。
 唯識学では、その行為は善悪にかかわらず深層意識に種子
となって薫習し、その行為を繰り返すたびごとにその種子は次
第に大きくなり、潜在力となってその人の行為を色づけると説く。
いわゆる善因楽果、悪因苦果である。故に悪の行為をなさず善
の行為をなせと説くが、果たして純粋な善の行為はできるだろうか。
 やることなすこと大小の差はあっても悪ばかりでとても不可能で
ある。ただおのれの心の浅ましさにお念仏を称えるだけである。

(出典 藤栩霊昌 「心のしおり 業」211125
    抜粋)
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