HT 他力不思議

 親鸞聖人は自力を「思議」と呼び、他力を「不思議」と仰せられています。私どもの常識から言えば、本願を信じていることも、念仏していることも、すべて自分の力で信じ、念仏し、聞法し、お勤めをしているとしか受け取れないことです。それは自分には、そういうことのできる能力があると思っているからです。
 しかし、私どもの本当の心の底を言いますと、教えを聴聞しようとする気も起こらず、お念仏を称えようという気も起こらず、人の評判は気にするけれども、やがて迫ってくる死に対して真剣に気にとめるということもしません。人が誉めるか貶すか、それは気になるけれども、自分が地獄へ行くかお浄土へ行くかはちっとも気になりません。ときにはヒヤッとすることに出遇いましても、すぐに紛れてしまって自分の人生の行方を突き詰めて考えようとはしません。また、人の悪口ならいくらでも言うけれど、尊い名号を称えて、広大な如来さまのお徳を讃仰しようというような心も口も持ってはいません。これが私の本来の姿ではないでしょうか。そういう私の口から、お念仏が出てくださっている。いや、お念仏申そうという心が起きてきたということは、これは不思議なことです。私を超えた如来さまの利他のはたらきに、私が動かされている。そのことに気づいたときの驚嘆の言葉が「他力不思議」なのです。
            
(出典 梯 實圓『親鸞聖人の信心と念仏』224頁)
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