HT 死なないいのちに出会う

■ 死なないいのちに出会う
 では私たちが本当に願う長生きとは何でしょうか。 『大無量寿経』に四十八の願が書かれている中で、 十五番目の願に長寿のことが書かれています。この十五番目の本願には、 浄土の世界、仏さまの世界がわかってきたら、 本当の長寿が実現できるとあります。ただし 「いのちの長い短いに囚われる人は除く」 と。 十八願で 「唯除」 という問題、 除くということに非常に深い意味があるということを教えて頂くのですけれども、十五願においても、この 「除く」 ということが意味深いと思わせていただくのです。
 長生きということで面白いヒントを与えてくれたのは産業医科大学の哲学の非常勤講師をされていた古川泰龍先生です。熊本で真言宗のシュバイツァー寺というお寺をしていらして、東西文化交流ということでキリスト教との交流もされていたと本に書かれております。 私たちは時間を、過去があって、現在があって、未来があると考えている。特に現代教育で歴史を習いますと物事を対象化して見ていきますから、自分とは無関係に時間は過ぎていくと思うわけです。今は西暦何年で、来年は私が生きていても生きていなくても何かが起こっていくであろうと、いつのまにか自分とは無関係に時間は過ぎていくように考えてしまっている。過去のどこかで私は生まれた、未来のどこかで私は死ぬであろうと。ところが古川泰龍さんの『死は救えるか』 (地湧社) という本を読みますと、多くの病気をした人や高齢になってきた人たちが、よく死にたくないとか、長生きしたいと言うが、この 「死にたくない」 とか 「長生きしたい」 は根が同じである、とおっしゃる。死なないわけにはいかないから、ちょっと値引きをして 「長生きしたい」 とこう言っているのだそうです。 そして、この 「死にたくない」 と発言する背後にあるものを考えてみると、 自分は 「生まれて」 から 「死ぬ」という有限の命を生きて、だんだん死が近づいてきた。 「ああ、もうこのまま死んでしまうのかな。本当は死なないいのちに出会って然るべきなのに、そういう死なないいのちに出会わないまま今有限の命を終わろうとしている」 と。だから 「死にたくない」 というのは、「死なない世界に出会いたい」 という、無意識に宗教的目覚めを求めている叫びである、と古川さんは言うのです。 無量寿、仏さまの世界に出会いたいということです。 ある哲学者の本を読んでおりましたらやはり、「死にたくないということは、 死なないいのちに出会いたいということなのだ」と書いていました。死にたくない、長生きしたいということは、 「私は生まれてから、死ぬという有限のいのちを生きている。 本来ならば死なないいのちに出会って然るべきなのに、そういう世界がわからないまま、今いのちが終わろうとしている、こんなはずではない」 と。 これは宗教的目覚めを求めている叫びであるというわけです。

(出典 田畑正久「医療と仏教の協力」
   雑誌「在家仏教」2005年8月号掲載)
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