HT 無智と不知
「末代無智」と「一文不知」(五帖一、二通)
Q 御文章の五帖目だけが別冊になっている版本が多いので、その第一通目
「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、・・・」
は、平素から読み慣れています。だが、まだ若いころ、フト疑問が出て叔父(そのころ戦死した父親代わり)に聞きました。
「末代無智の男女」と蓮如さんは書かれているが、もう五百年も昔のこと。まだ教育が普及していない時代だから、「無智」と言われて通ったのでしょうが、皆が教育を受けている現代には合わない言葉じゃないですか?と。
(すると叔父がすぐに答えました。)
A お前、次の二帖目を読んでいるか。
「それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり」
とあるだろう。お前のいう教育がないというのはその「一文不知」(文字一つも知らない)ということだが、その「不知」の「知」と、一通目の「無智」の「智」 とは違うということを知っているか。「末代無智」とは、世は末代の悪い時代になって、人間に「智慧」がなくなってきているということだ。智慧とは、二通目にあるように「後世を知る」(後生の一大事を知る・人間のいのちの大切さがわかる・この尊いいのちの行方がわかる・浄土に生まれて仏のおさとりをえることこそ人間の生まれ甲斐だと知る)人を「智慧ある人」「智者」と言われてあるだろう。
単なる「知識」の「知」と、「智慧」の「智」とは雲泥の差だ。そこをきちんとわきまえ、智慧を得るために学ばねばならぬ。それを「学 仏大悲心」というのだ。また、お話しよう。
◆驚きました、仏教の深さに! 蓮如上人の 文字遣いの慎重さに!
知識と智慧の違いに!
人生の大きな方向づけを頂いたことに!
(出典 聞法ノート)
【キーワード】 智慧 知識 教育 後世 後生 生まれ甲斐