HT 本願招喚の声そのものを聞く

  《大峯顕先生のお言葉をいただきました》

 南無阿弥陀仏を信じられないということはどういうことかというと、南無阿弥陀仏は自分が言っている言葉だと思っていることです。信心というのは単純なことで、南無阿弥陀仏という言葉は人間がそう決めた言葉ではなく、私を喚んでくださっている如来さまの言葉だったということに気づいた時、初めて信心が生まれて来るのです。
 如来さまの言葉が聞こえない間は信心はありません。その時の南無阿弥陀仏は自分が唱えている呪文の言葉ですね。何遍も南無阿弥陀仏と言っていたら、そのうち何かご利益があるのじゃなかろうかと思っている。これなら自分が念仏していると思っていることですから、一向にみ名を聞いていない。阿弥陀仏のみ名を聞くということが真の称名念仏です。仏法を聴聞するということは何を聞くのかというと、南無阿弥陀仏となって私に心配するなと喚びかけていてくださる如来さまの声を聞くということです。本願についての誰かのお話を聞くことではなく、本願招喚の声そのものを聞くということです。

(出典  大峯顕『招喚する真理』正像末和讃を 読む 下 親鸞聖人の悲しみ 193頁より)
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