HT 仏恩深し ただ謝するのみ
一
仏恩と聞けば、まず思い出すのは、昭和二十一年の報恩講案内状に添えられた暁烏敏師のこんなお言葉です。
「私共人間は、恩波の上にただよってゐる小舟の様なものである。前も恩、後も恩、右も恩、左も恩、過去も恩、未來も恩、私がこの世に居るといふことの一切が御恩である。
この御恩は返しても返しても加わって来る。私達の生活は恩を受くる生活であると同時に恩に報ゆる生活である。この事を教へて下さったのが親鸞聖人である。聖人の教へが無かったら、私は恩の中に居ながら恩を知らないでゐたことである。・・・一年三百六十五日、一日として報恩の日で無い日はない・・・」
二
「一生の間申すところの念仏はみなことごとく、如来大悲の恩を報じ徳を謝すると思うべきなり」と申された聖人は、「恩」に「めぐみ」という註をつけておられますが、そのめぐみがあまりにも広大であるため、私たちはそれが自覚できず、わが力、わが甲斐性で生きているように思い上がっているのです。
「昼顔やいずれの露のめぐみやら」という床しい一句には、朝の露か夕べの露か、いずれの
露とも知れないめぐみを受けて咲いている一輪の昼顔に頭を下げておられる俳人の姿が目に浮かびます。
(石川欣也『善正寺だより』432号より)
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