HT 雑行を棄てて本願に帰す

①親鸞聖人の苦悶
親鸞聖人は、九歳で得度をして比叡山に登られ、二十年間一生懸命修行をされました。その目的は何であったのか。存覚上人が『嘆徳文』でこう書いておられます。「私は生死を離れる道を求めたからこそこれまで修行をしてきたが、『定水(じようすい)を凝(こ)凝(こ)らすといへども識浪(しきろう)しきりに動き、心月(しんがつ)を観(かん)ずといへども妄雲(もううん)なほ覆(おお)う』… 比叡の山から見下ろす琵琶湖の水は鏡のように静かで動かないが、私の心はいつも煩悩で波立っている。お山から望む真如の月は円(まど)円(まど)かに澄みわたり、煌々(こうこう)と明るいが、私の心はすぐに煩悩の群(むら)雲で覆われてしまう」と歎かれました。
「煩悩を断って涅槃のさとりを得たい」との目的で修行をしてきたが、その「煩悩を断つ」ことができない。「不断(ふだん)煩悩(ぼんのう)」であるとのお歎きです。煩悩とは、欲、腹立ち、愚痴に迷うということですが、親鸞聖人にどのような煩悩がおありになったのでしょう。
聖人のころの比叡山は、今でいう大学のようなところでした。何千人という僧がいて、学問をし、修行して、上の位にのぼろうとしのぎを削っていた。貴族出の人、武士や農民出の人・・・など、様々な出身の人がいましたが、その頃はその人の出身で位が決まったそうです。
親鸞聖人は一応貴族の出でしたが、下級貴族出身だったので、どれだけ励んで学問・修行されても、栄達はとても見込めません。有望でなかったのです。
しかも、比叡山には昔から女人禁制で、僧は女性と交わることはできないという「女犯戒(によぼんかい)」がありました。聖人はまじめにその戒を守っておられましたが、当時の叡山では、ひそかにその戒を犯している僧が相当いたようです。
敏感な親鸞聖人には耐えがたい心の葛藤がおありになったことでしょう。まさに「定水(じようすい)を凝(こ)らすといへども識浪(しきろう)しきりに動き、心月(しんがつ)を観(かん)ずといへども妄雲(もううん)なほ覆(おお)う」有様でした。「定水」「心月」のような「さとり」の目標は見えていても、わが心の中にむらむら涌きおこる意識の波や、疑惑の雲はどうしても抑えきれなかった。煩悩の断てない自己という現実の壁にぶつかられたのでした。

②六角堂でのお籠もり  
そこで遂に二十九歳の時、一大転機がきます。
煩悩を断つことのできないこの身は、「いづれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじよう)すみかぞかし」である。この行き詰まり、どうしたらよいのか?
仏教では、「惑(わく)・業(ごう)・苦(く)」という三つの)障(さわ)りを問題とする。惑とは、私たちの心の惑(まど)いー煩悩です。その煩悩が「業(ごう)」をつくる。煩悩の業は「悪業」です。悪業を作れば地獄の「苦」に陥(おち)ていくーこれが「惑業苦」という因果の道理なのです。
煩悩を断つためのどの修行も達成できない身であれば、もう地獄の苦から遁(のが)れることはできない、と聖人は深く悲しまれ、絶望のどん底に陥(おちい)られた。そこで京都の六角堂に百日籠もって、後世の助かる道を求められた。そこを『嘆徳文』にはこう書かれています。
「ことに歩みを六角の精舎(しようじや)に運びて、百日の懇念(こんねん)をいたすところに、まのあたり告(つ)げを五更(ごこう)の孤枕(こちん)に得て数行(すこう)の感涙に咽(むせ)ぶあひだ・・・」
 百日間お籠もりになり、後世の救いを祈られる、すると九十五日目の寅(とら)の刻(こく)(午前四時ごろ)観音菩薩の夢のお告げがあった。「行者よ、もし宿報によって女犯するなら、私がその相手となり、一生の間よく添いとげ、臨終には極楽に導きましょう」とのこと。「在家生活をしていても、煩悩の断てないままでも、救いの道がある」という意味です。  
煩悩を断てない者は地獄行きだと悩まれていた聖人にとっては、靑天(せいてん)の霹靂(へきれき)。全く思いがけない観音菩薩のお告げでした。

③法然聖人とのお出遇い
親鸞聖人は、すぐさま法然聖人を訪ねられます。在家で救われるという教えを説かれているのは法然聖人より他ないと思われていたからです。さっそく吉水で法然聖人にお遇いになります。 
「なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・さて、あなたはどちらから見えましたかのう? 」
「はい、私は比叡山から参りました範(はん)宴(ねん)と申します」
「どういう御用ですか」
「私はこれまでお山で修行して来ましたが、とてもさとりなどは得られない、煩悩ばかりの、地獄一定の私でございます。このような者にはもう助かる道は無いのでしょうか? 」
「いや、あります」
「えっ、どこにありますか? 」
「ただ念仏して弥陀に助けられ参らすべし」
「ええっ、ただ念仏して?! 念仏だけで救われるのですか? 」
「そうじゃ、そうじゃ。念仏一つで救われるのですぞ。
なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」
 そう答えてお念仏される法然聖人のお顔は光輝くばかり。まさに「光顔巍巍(こうげんぎぎ)」。その尊いお姿、自信に満ちたお顔で内奥(ないおう)から自然に漏れてくる穏やかなお念仏に、親鸞聖人は身も心もすっかり打たれてひれ伏しつつ、「このお方なら間違いない! 」と胸の内に直感され、暗闇の中に一條の光を見る思いでした。
しかし、大きな問いが涌いていました。

④「なぜただ念仏ですか?」
「ただ念仏との仰せ、ありがたいことです。でも、どうしてただ念仏一つでよいのでしょうか?実は私、お山の常行(じようぎよう)三昧(ざんまい)堂(どう)で九十日間、念仏はいやというほど唱えて阿弥陀像の周りを歩き続けましたが、ついに阿弥陀さまにお会いすることはできませんでした。念仏には大した功徳はなかったのです。だのに、お聖人は今、『ただ念仏一つで』と仰せです。なぜ、念仏一つで救われるのか、お教えください」
真剣な眼差しで手をにぎり、聞き耳を立てられる親鸞聖人に、法然聖人は目を閉じて昔を思いだされながらお答えになります。
「範宴どの、ごもっともなお問いですのう。実はわしも二十六年昔、四十三歳の時じゃった。比叡山で戒(かい)・定(じよう)・慧(え)の三学を学んでいたが、とてもわしは三学をこなせる器ではないと分かり、黑谷に下りて報恩蔵(経蔵)に籠もった。そしてこの愚かな者が救われる教えがないかと、沢山の経典をまさぐっていた時、不思議にも善導大師の『観経疏(かんぎようしよ)』というお聖教に手がふれ、その中でこのお言葉に出遇ったのじゃ。
『一心(いつしん)弥陀(みだ)名号(みようごう)。行(ぎよう)住(じゆう)座臥(ざが)。不問(ふもん)時(じ)節久(せつく)近(ごん)。念念(ねんねん)不捨者(ふしやしや)。是(ぜ)名(みよう)正(しよう)定業(じようごう)。順(じゆん)彼(ぴ)仏(ぶつ)願(がん)故(こ)。』
【意訳】一心に専(もつぱ)ら弥陀の名号を念じ行くにも住(とどま)るにも、座しても臥(ふ)しても、時間の長短を問わず、称名を止(や)めなければ、是(こ)れを正(まさし)く往生が定まる業と名づける。彼の仏〈阿弥陀仏〉の願に順ずるが故に)と。
お分かりかのう。いつでもどこでも、南無阿弥陀仏と弥陀の名号を称えることで我らの往生は決定(けつじよう)するのだ。その訳は、阿弥陀仏の本願に順じているからだ、との思し召し!  わしは、目を疑った。『念仏一つで救われる。それが仏の本願だから』とは! 驚いた。ここにこそ、この愚かな者の救いが誓われているのだ。ただ言葉だけでの『一心専念弥陀名号』ではない。『順彼仏願故』と如来の本願がかかっているのだ。わしは、この『順彼仏願故』まで読んできたとき、ハラハラと涙がこぼれ、止まらなかった。『ただ念仏』で救われるとは、『如来の本願』に誓われているからだったのだよ・・・。
なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」
こうして昔の回心を思い出されている法然聖人の目には光るものがありました。感動した親鸞聖人・若い範宴さまは膝を乗り出して、さらに尋ねられます。  
「ただ念仏して助かるのは、如来の本願に順じるからでございましたか。それほど大事な本願とはどこに書いてあるのですか?」
「それは『無量寿経』というお経にある。長い大事なお経だ。どうだ、明日からでも腰をすえて読んでみては…」
親鸞聖人の奥方恵信尼公が、当時のことをこうお手紙に書いておられます。
「法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふ(大事/台風)にもまゐりてありしに・・・」と。
親鸞聖人は、法然聖人とのお出遇いの後、百日間毎日、何があっても吉水に通い続けて、一生懸命「本願」を始め、念仏門の要を学ばれたのです。
 そして遂に「建仁(けんにん)辛酉(かのとのとりの)歴(れき)、雑(ぞう)行(ぎょう)を棄てて本願に帰す」(『教行信証』後序)という一大転機に至られたのです。

⑤「雑行を棄てて」   
建仁(けんにん)辛酉(かのとのとりの)歴(れき)とは、親鸞聖人二十九歳の年です。これを期に聖人は比叡山二十年間の「雑行」を棄てられた。比叡山を下りられた。そして法然聖人の「専修(せんじゆ)念仏(ねんぶつ)」の門下に入られたのです。
 その「雑行」とは何でしょう。
「雑」とはまじるということ。「雑行」とは、あれもこれもの行が雑(ま)雑(ま)じることです。
「最澄が開いた日本の天台宗は、智顗(ちぎ)の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。いわば、密教の単科大学であった金剛峯寺(こんごうぶじ)に対して、延暦寺(えんりやくじ)は仏教総合大学であった。 天台宗の修行は法華経の観(かん)心(しん)に重きをおいた「止観(しかん)」を重んじる。また、当時の日本の天台宗の修行は朝に題目・夕に念仏という言葉に集約される」
という状況でした。「総合」とは「雑行」「諸行」につながります。朝(あした)朝(あした)に法華経の題目を唱え、夕べに念仏するという「雑じり」方でした。
親鸞聖人はこの「雑行」では救われなかった、だから「雑行を棄て」て、法然聖人の専修念仏門に入られたわけです。

⑥「本願に帰す」
それなら、親鸞聖人はなぜ「雑行を棄てて『専修念仏に帰す』」といわれないで、『本願に帰す』と言われたのでしょうか。それは④で申したように、法然聖人ご自身が、善導大師の説かれた「順彼仏願故」に刮目(かつもく)・落涙・回心された。だから親鸞聖人もそのお意(こころ)をうけて、「ただ念仏(専修念仏)して弥陀に たすけられ参らす」のは「弥陀の本願」によるからだといただかれた。それで『本願に帰す』と明言されたのです。

⑦「本願名号正定業」
 ですから、正信偈で「本願名号正定業」(本願の名号は正定の業なり)と書かれている。単なる「名号」ではない、本願が名号となって顕れているのです。 十方の衆生を救わずにはおけないという本願が成就された(実った)のが名号なのです。「本願成就のそのみ名」(和訳正信偈)です。本願と名号とは一体なのです。ちょうど、槍の穂先と柄との関係と同じ。柄にこめらた力が穂先に集中するから、槍のはたらきが出る。本願という柄の力が名号という穂先に集中するから、どのような煩悩悪業の凡夫でも碍(さわ)りなく救うという「槍」のはたらき(正定業)が出るのです。だから「本願名号正定業」になるのです。 
これが浄土真宗の教えの要・枢軸(すうじく)です。その要が、善導ー法然ー親鸞へと確かに伝承護持されていることを認識しなければなりません。

(出典: 藤枝宏壽「真実の利」、海野公子『阿弥陀さまに導かれ』(2022年4月)所載)
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