HT 諸法無我
『関係性によって成り立つ私』
     山中恩栄寺住職 日 下 賢 裕

 さて、今回はお釈迦さまが目覚められた真実の一つ「諸法無我(しょほうむが)」について味わいたいと思います。
 まず「諸法」という言葉ですが、意味としては「諸行」とほぼ同じで「あらゆる物事」と理解すればいいかと思います。
 そして「無我」というのは「我というものが無い」という事です。
 しかし一般には、「我」とは変化の中にあっても、決して揺るがない本質の事を表わします。インドの言葉では「アートマン」と言います。
 例えば人間には、決して揺るがない、その人をその人たらしめる本質のようなもの(=我)があると。さらに「我(アートマン)」というものは「常一主宰」の性質を持ち。「常」とは決して変化しない事、「一」とは何の関係にも依らず単独で存在できる事、そして「主宰」とは、その存在の全てを自在にコントロールできる事。そのような「我」がなければ、物事は存在しないと考えられていました。
 ですが、お釈迦さまはそうではないと説かれました。
 「私」という人間は不変なる「我」があるから存在しているのではなく、様々な関係性に依って成り立っていると示されたのです。
 例えは椅子というものは、座面、足、背もたれなどの部分によって構成されています。しかし座面も足も背もたれも椅子ではありません。それらが椅子の形に組み合わさって初めて椅子になります。また椅子は座る人がいて椅子としての用が成り立ちます。
 つまり様々な部分によってそれらは仮に椅子として成り立ち、それを使う人がいることで、座る道具として仮に椅子として成り立ってい
るのです。
 私という人間もそれと同じです。様々な細
胞や臓器によって構成されていますが、そのままでは私は私ではないのです。私は様々な人との関わりの中で生きています。その関わりの全てによって、実は私を私たらしめています。
その様な関係性、条件、環境によって初めて、私が私として成立するのです。
 つまり「無我」というのは、全てはあらゆる物事との「関係性=縁起」に依って成り立つものであり、絶対不変のものとして執着してはいけないという事を教えてくれているのです。

(出典 『厳教寺だより』47号 令和5年3月10日
 筆者 日 下 賢 裕 )
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