HT 信心正因・称名報恩論 

親鸞聖人の信心正因論
    行信教校講師 藤澤信照

信心正因・称名報恩
 親鸞聖人が「正信偈」龍樹章に、「弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時必定に入る。ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといヘり」(註釈版聖典205頁)と言われていることによって、覚如上人は、第十八願に誓われている信心と称名念仏の関係を「信心正因・称名報恩」という言葉で顕され、蓮如上人もこれを受け継いで、浄土真宗の行信論として確立されました。
 覚如上人は、本願成就文によって、本願の名号を聞信する即座に往生は決定し、その後の称名念仏は、往生決定してくださった阿弥陀さまに対する報恩の営みであるとお領解されました。そして、第十八願に
「至心・信楽・欲生我国、乃至十念」と信行次第して誓われていることが、まさにそれを顕しているとご覧になったのです。
 このように、第十八願の信と行を前後法と見て、信と行の関係をあらわすのが、「信心正因・称名報恩」という法義です。それに対して、「念仏往生」や「称名正定業」という法義は、第十八願の信と行を前後法と見ないで、念仏ひとつのところで、信心と名号の徳を語る法相(ほうそう)なのです。
 ですから、「信心正因・称名報恩」という
ことと「称名正定業」ということとは、法相の違いであって、この二つの法義は矛盾するものではありません。

名号を領愛する信心
  さて、親鸞聖人が「信心正因」と言われ
るとき、その「信心」とは「無疑」、あるい
は「疑蓋無雑」の意であり、本願の名号を疑いなく受け入れることでした。        
 また、「正因」の「正」とは「邪(よこしま)」に対する言葉で、「正当」あるいは「正直」、すなわち「まっすぐ」の意であり、「因」とは「因種」、すなわち「たね」の意です。
 つまり、親鸞聖人が「信心正因」ということを語られるとき、それは「本願の名号をはからいなく受け入れる信心は、さとりの浄土に往生し、成仏する正(まさ)しき因である」ということを意味していました。
 本願の名号とは、『大無量寿経(大経)』上、法蔵修行の一段に、
  不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量  の徳行を積植して、(乃至)大荘厳をもつて  衆行を具足し、もろもろの衆生をして功徳  を成就せしむ。(同26頁)
と説かれているように、法蔵菩薩の修された無量の功徳が、衆生の往生成仏の因となるように、名号ひとつにおさめて成就され、衆生に回向されたものでした。それゆえ、親鸞聖人は本願の名号を「万行円備の嘉号」(同477頁)とか、「この嘉名は万善円備せり」(同399頁)と言われたのです。
 このような本願の名号を領受しているの
が「信心」ですから、親鸞聖人は「信心は
往生成仏の正困である」と言われたのです。
 ちなみに、『高僧和讃』「曇鸞讃」には、
   安楽仏国にいたるには
   無上宝珠の名号と
   真実信心ひとつにて
   無別道故とときたまふ (同586頁)
とあります。「ひとつにて」とは、往生成仏の因は、法の側からいえば「名号」であり、それを領受した衆生の側からいえば「信心」というのであって、名号と信心は別のものではないことを顕しています。

如来の大悲心(三心即一の信楽)
 さて、親鸞聖人は『数行信証』「信文類」三一問答において、本願に誓われた「至心・信楽・欲生」の三心について、
  弥陀如来、三心を発したまふといへども、  涅槃の真因はただ信心をもつてす。
                (同229頁)
と言われ、三心に詳細な字訓を施して、三心はいずれも「疑蓋無雑」であるから信楽と名づけられるとし、結局、三心は信楽一心におさまるから涅槃(成仏)の正しき因は、信楽一心であると言われたのです。
 さらに、三一問答の法義釈において、凡夫には、現在も過去にも、至心(真実心)も、信楽(無疑心)も、欲生(浄土往生を願う心)も、発すことはできなかったし、未来においても発しえない(機無)。如来はそのような凡夫のために、兆載永劫の修行によって三心を成就し(円成)、その三心を衆生に施される(回施)。そして、その三心は信楽一心におさまる(成一)ということを明らかにされました。
 その信楽釈において、
  この心(信楽)はすなはち如来の大悲心な  るがゆゑに、かならず報土の正定の因とな  る。(同235頁)
と言われているように、親鸞聖人は「三心即一の信楽は、如来の大悲心(仏心)であるから、往生成仏の正因となる」ということを明らかにされたのです。
 なお、『正像末和讃』には、
  不思議の仏智を信ずるを
  報土の因としたまヘリ
  信心の正因うることは
  かたきがなかになをかたし(同608頁)
とあります。これは、この信心は人間の思議(自力)をもってはけっして獲得しえないものであり、ただ、ほれぼれと不思議の仏智を受け入れるところに開かれる「他力の信心」であることを顕されているのです。

横超他力の菩提心
 さらに親鸞聖人は、如来回向の信心は、その徳が菩提心であるから、往生成仏の正因となるとお示しになっています。菩提心とは、自利(自らさとること)と利他(他の人をさとらしめること)を、円かに満たすような菩提(さとり)を求める心であり、そのさとりにふさわしい願心のことです。
 第十八願には「若不生者、不取正覚(もし生まれずは、正覚を取らじ)」と、衆生を往生成仏せしめようとする心(度衆生心)と、自らのさとりを求めようとする心(願作仏心)とが、一体不二に誓われています。親鸞聖人によれば、「菩提心」とはすべての衆生を救おうと願われた、阿弥陀如来の願心そのものを指していました。そして、このような阿弥陀如来の本願こそ、自利利他円満のきとりにふきわしい菩提心である、とご覧になったのです。
 このような阿弥陀如来の本願成就の名号を聞いて、「必ず仏にならせていただける」と領解した信心は「願作仏心」です。すなわち、如来の「度衆生心」が衆生の「願作仏心」となるのです。そして、如来より回向された信心は、やがて往生したならば、「すべての衆生を救済しうる身にならせていただく」、ということを期待する心でもあります。ですから、「願作仏心」である信心には、やがて「度衆生心」となるべき徳があることがわかります。
 親鸞聖人はこれを「横超他力の菩提心」とよび、「真実信心は横超他力の菩提心であるから、菩提(さとり)の正しき因である」と言われたのです。
 そのことを『高僧和讃』「天親讃」には、
  願作仏の心はこれ
  度衆生のこころなり
  度衆生の心はこれ
  利他真実の信心なり
         (註釈版聖典581頁)
等と、浄土往生を願う信心は他力の菩提心である、と讃えられています。

大信心は仏性なり
 また、親鷲聖人は「信文類」三一問答の信楽釈に、『涅槃経』の文を適宜引用し、如来回向の信心は仏性であるから、往生成仏の正因となると言われています。まず、
  大慈大悲は名づけて仏性とす。仏性は名づ  けて如来とす。(中略)大喜大捨はすなはち  これ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来な  り。 (同236頁)
とあるのは、如来が無量の衆生に対して、楽を与え、苦を除こうとして起こす四つの心、すなわち「四無量心(大慈・大悲・大喜・大捨)」によって、仏の徳(果仏性=としての性質)を顕されたものです。
 次に、
  大信心はすなはちこれ仏性なり、仏性
  はすなはちこれ如来なり。(同237頁)
とあるのは、如来の「四無量心」の徳が衆
生に回向されて、「大信心」となっているこ
とを顕されたものです。
 最後に、
  仏性は一子地と名づく。(中略)一子地はす  なはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ  如来なり。(同237頁)
とあるのは、「大信心」を得た衆生が、やがて「一子地」という徳(果仏性=仏としての性質)を得ることを顕されたものです。
 こうして親鷲聖人は、如来の徳である「四無量心」が衆生に回向されて「大信心」となり、その「大信心」は仏性(因仏性=仏となるべき性質)であるから、やがて「一子地」すなわち「怨親平等のさとり」を開く、ということを明らかにされたのです。
        
(出典 『大乗』令和4年11月号)
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