『法爾』(No.274) おたより より
○夏の早朝からの「暁天講座」(金沢別院・鶴来別院)に今年は「摂取の大悲」と題して法話をさせて頂く。
「摂取の大悲」は「摂取不捨の大慈悲心」というこ七です。親鸞聖人は、著作の本文、特に『和讃』にはその左側に「左訓」(ひだりがな)と呼ばれる語注をつけて下さっています。
「摂取」という言葉には「おさめとる。ひとたひ(一たび)とりてなか(長)くすてぬなり。せふ(攝)はものの逃ぐるをおわえとるなり」「取(しゅ)」はむか(迎)へとる。とあり、仏法に背いている者までも追わえ取るという意味です。
「正信偈」の中に「我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)(われまたかのせっしゅのなかにあれども)「煩(はん)悩障眼雖不見(のうしょうげんすいふけん)(ぼんのうまなこをさえてみたてまつらずといえども)「大悲無倦常照(だいひむけんじょうしょう)我(が)」(だいひものうきことなくつねにわれをてらしたまう、といえり)と「ども」を重ねて二重否定され、仏さまの摂(おさ)めとるおはたらきの只中にありながら、煩悩が眼をさえぎつて見えず、仏さまに背(そむ)いてばかりの逃げている私をこそ、阿弥陀仏の大悲心があきらめず、みすてず、常に照らして下さっている。という意味です。
そして私の眼をさえぎっている煩悩は、老、病、死するいのち自身の持つ悲しみ・悩みでもあります。
わたしの/せなかの/からの/なかには
かなしみが/いっぱい/つまって/いるのです。
新美(にいみ)南吉
児童文学作家・愛知県半田市生 享年二十九才
童話「でんでんむしの かなしみ」から
でんでんむしはある日「たいへんなこと」に気づく。このままではもう生きていけないと友だちに告げると、誰もが「あなたばかりじゃありません。私のせなかにも悲しみがいっぱいです」と言う。みなそれぞれの悲しみを抱えるからこそ、いたわりあうこともできる。でんでんむしはとうとう気がつきました。「わたしは わたしのかなしみを こらえていかなきやならない」と心に決めた。このでんでんむしはもうなげくのをやめたのであります。
-「折々のことば」より
「こらえる」というのは「悲しみのままに歩む」ということでしょう。みんな悲しみを抱いて生きています。それがなくなって明るくなるのではないですね。
○念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益(りやく)がにあずけしめたまうなり。(『歎異抄』聖典六二六頁)
悲しみ、苦しみをご緑として、ふとご回向のお念仏がお出まし下さると、この身のまま無条件で命まるごと摂(おさ)めとって下さる大悲心がこの私に成就します。そのままで生きよ!と。悲しみのままに「挙足(こそく)一歩」する力となって下さるご利益(りやく)なのです。
○コロナウイルス感染拡大の中、みな様お大事に念じます。 合掌(千佳子記)