HT もしも

 もしこの世に生まれてきた目的が、仏法に出遇うためであったとしたら・・・。もし仏法が死んだ人の為にあるのではなく、この私が悟りを開いて仏になるための教えだとしたら・・・。もし仏になることが死ぬことではなく、生死(しょうじ)・すなわち生死(せいし)を越えた境地に至ることであり、その世界を極楽浄土と呼ぶということであれば・・・。また、その極楽浄土に生まれていくことは、ただ仏様の計らいによってのみ出来ることであり、仏様はすべての生きとし生けるものを仏にしたいと願い、極楽浄土に生まれさせようと、今現にはたらいていらっしやるとしたら・・・。
 
 今私たちはその仏様のはたらきの中にいて、仏様になる一日一日を生きていることになる。そして仏様になるのはこの人生の終わり、つまり臨終の時と聞かせていただけば、私たちの人生は死んだらどうなるか解らないという、不安の中を生きる日暮らしではなく、仏になるに間違いないという智慧に照らされた、光の中の日暮らしとなり、安心して生きていける日々がそこから始まる。

 仏になることは迷いのいのちの終わりであり、悟りの世界の始まりである。死は終わりではなく仏様の日暮らしの始まりとなり、浄土に生まれてこそ、自分も他の生き物も共に幸せになる世界が開かれると、極楽浄土こそが真実の世界であり、移ろい変わりゆくこの世界を虚仮不実(こけふじつ)。真実ではないと、教えてくださるのが仏様の教えです。

 「もしも・・・」とお話してきたことは、実はもしもではなく、私たちの思いを越えた仏様のはたらきであり、現実の出来事です。それを私たちに教えてくださったのがお経であり、仏様が現にはたらいている姿が、南無阿弥陀仏のお念仏です。念仏は「安心せよ」との仏様のお喚び声でありました。
        
(出典(テレホン法話) もしも
    群馬県 西福寺 阿部信幾 )
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