HT 機無・円成・回施・成一 きむ・えんじょう・えせ・じょういつ
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機無き-む・円成えん-じょう・回施え-せ・成一じょう-いつとは、「信巻」三一問答の法義釈(信巻 P.231)で、至心・信楽・欲生の三心は、本来真実  の三心をおこすことの出来ない衆生に代わって阿弥陀仏(因位の法蔵菩薩)が成就して回向して下さる大悲心であることを示す。
•機無 衆生(機)には、清浄真実の心は全く無い。因位の阿弥陀仏が衆生をみそなわ すに、煩悩成就の衆生には、生死を離れて仏となる因である清浄    で真実な心は全く 存在しないということ。この機無は、二種深信の機の深信に通じる。
•円成 阿弥陀仏が衆生に代わって、兆載永劫に衆生を救うために清浄真実なる因を、 円まどかに成就されたこと。
•回施 阿弥陀仏が成就した、往生成仏の涅槃のさとりの「業因」である功徳の名号 を、衆生に等しく回向し施して下さること。
•成一 至心も欲生も、疑蓋無雑(疑蓋雑はることなし)の一心である本願の名号を疑 心なく受け容れる信楽に帰一するということ。

 すなわち浄土真宗における信の本体は、阿弥陀仏の大悲の仏心であり、衆生を摂取する決定摂取心である。この心を三心成一の一心である信楽として衆生に回施して下さるから、これを正しく受けいれた仏心であるような信は必ず往生成仏の真因となるのである。仏心は無漏の金剛心であるから、これを正しく受けることを「正受金剛心(まさしく金剛心を受けて)」(信巻 P.244)とされ、真実の信心は阿弥陀仏の願心(菩提心)を受けることであり「行者正受金剛心(行者まさしく金剛心を受けしめ)」(行巻 P.206)、と、私の側にみないのが浄土真宗の信心の特長である。故に「如来よりたまはらせたまひたる信心なり」(歎異抄 第6条) として信はわたくしの上にあるけれども私のものでは無いのである。
あらわし方が少しく違うが、「仏願の生起本末」に準じていえば、機無は仏願の「生起」、円成は仏願の「本」であり、回施は仏願の「末」である。機無・円成・回施・成一の表現は、至心、信楽、欲生の釈で少しく顕わし方が違うので、それぞれの文にあたって領解すること。なお、至心の体は「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」(信巻 P.232)の、なんまんだぶである。