HT 自力と他力・超越と内在
人間として人間世界を生きてゆく、つまり、煩悩具足の凡夫が火宅無常の世界を生きてゆく、これが人生です。その人生途上において自分で懸命に頑張ったり、自己決断したり、あるいは人のお世話になつて、もちつもたれつゆくなど、いろんな経験があります。どうも仏教の自力他力というのも、そういう人生経験のレベルで考えられがちです。自力とか他力とか、自力がよいとかダメだとか、もちつもたれつ、生かされて生きるのがお他力だとか、いろいろな言われ方をしていますが、そのようないろんな議論はみな人間世界を超える、一口で言えば「超」というか、そこのところがはっきりしていないのではないでしようか。そのように私は思います。
けれども、お釈迦さまも大乗仏教の祖師がたも法然上人も親鸞聖人も、いのちをかけて明らかにしようとされたのは、人間を超えた世界に私たちを導こうとされているということです。そのいちばん要のところを甘くしてわからせようとしますから、どうしても解説すると俗耳に入りやすい平板な仏教の説明になつてしまいます。だから非常に甘い仏教理解になつてしまっている、そういうことを感じます。
それから「超越」の反対用語は「内在」ですが、こちらのほうがわかりやすい。たとえば若い人に神さんや仏さんはどこにいるかと尋ねたら、私を超えていらつしやるというのか、私を超えた神さんや仏さんは信じられませんと言う。どのような神や仏なら信じられるのかと問うと、私の心の中に内在するもの、と答える人が多くなつています。ですから仏も内在的に説明したらわかりやすい時代になつてきているのではないでしょうか。
けれども内在と超越は大変な問題であります。「南無阿弥陀仏」という礼拝の対象を目の前に掲げて、手を合わせて拝むということは、拝む私がこちらにいて、信心や礼拝の対象になる仏さまが私を超えて向こうにいらっしやるという超越感覚から来ているのでしょう。
仏は単に内在的ではない。かといって私を超えているのが仏さま、仏さまは超越のかたなのだと寄ってしまったら、それはまた間違いです。そのような仏さまだったら別に仏法の話を開かなくても、準土真宗の教えを聞かなくてもいいわけです。日本の他の宗教の神でも、キリスト教の神であっても人間を超えています。それでは神も仏も一緒くたになってしまいます。だからとてもむずかしいわけです。
では内在かといえばそうではない。だから弥陀の本願を信受する真宗の回向信をこのよぅに言葉の世界で表そうとすると、内在であって超越、超越であつて内在、このように非常に矛盾した表現を取らざるをえない。そういうことを論理の上でもはつきりさせるとともにそれにとどまらず、体験の上でもはつきりさせていくことが、きわめて大切な時代になつてきていると思うのです。
そのようなわけで私は、浄土真宗の布教論のようになりますが、なんとかして法然上人や親鷲聖人が明らかにしてくださった浄土真宗の真実の世界を共に分かち合いたい、そのところをはつきりとさせたいと、その方法を明けても暮れても考えているのです。
(出典 西光義敞『わが信心 わが仏道』(法蔵館2004年)29~31頁)
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