HT 煩悩具足・罪業深重
煩悩具足
ー如来に見ぬかれた姿ー
見せかけの姿
「毎日、煩悩にまみれた生活をしていて、恥ずかしい限りです」と言いもし、また耳にもします。それがお念仏の裏付けになつており、阿弥陀如来をたのむ信心と一体となっているものなら、まことに結構で尊いことです。
しかし、今、私を振り返ってその言葉を考えてみますと、確かに金、金、金の金銭亡者になつている自分の姿や、いつでも他人を悪者に仕立て上げて、憎んだり罵ったりする自分の姿を表現していて、嘘を言っているわけではないでしょう。けれども、本当にの底から懺悔(さんげ)をもつて、その言葉が発せられているでしょうか。自分自身の日常が、人さまの前を顔を上げて歩けないほど恥ずかしいものという自覚をもつて、赤面しながら語られているでしょうか。いえ、まったく逆で、「恥ずかしい私です」と言いながら、かえつて胸を張っている自分の姿があります。それは口先ばかりで、懺悔の心が伴っていないのです。私は阿弥陀如来のお慈悲を聞いていているから、このように自分を振り返る心をいただいているという、見せかけの姿です。
煩悩具足の自覚
したがって、煩悩にまみれた自分を、口で言うほど恥ずかしく思ってはいません。むしろ、如来が煩悩具足の者を救うとおっしゃっていることを取り違えて、煩悩にまみれた自分の自己弁護の道具に使っているわけです。人間だから煩悩があるのは当然だと開き直っている偽物の念仏者です。
酔っぱらっている者に、酔っぱらいの醜態はわかりません。それは、醒めている者から見て初めて醜い姿なのです。煩悩具足という自覚は、煩悩にまみれた日常を生きている私にはあるはずがないのです。煩悩具足の生を生きているというのは、如来の智眼(ちげん)によって見ぬかれた私の姿であって、私ども煩悩に迷った者は、阿弥陀如来の教えによって、それを信知させていただくほかはないのです。信知というのは、如来の教えを私のものとしていただくことです。まことに限りなく恥ずかしくも、悲しい私の内面を知らされるのです。「あさましいなァ、恥かしいなァ」という嘆きであって、他人に聞かせられる声ではありません。黙ってひとり泣くよりないのです。
摂取不捨の深さ
ところが、この煩悩是の信知は、そのまま摂取して捨てないという阿弥陀如来の本願に裏付けられています。あさましい、はずかしいという嘆きの深さは、その深さに比例して、摂取不捨の身を喜ぶ大きさを表しているのです。
罪悪深重 真の人間への覚醒(かくせい)
法律的犯罪と宗教的罪
罪悪深重の凡夫という語を開いて、「私ども善良な市民を罪深い人間と呼ぶ教えには、とてもついて行けない」という人があります。ここで罪悪というのは、詐欺・窃盗・傷害・殺人等の、いわゆる社会的法律的犯罪のことではありません。このような犯罪をもって罪悪というのであるなら、人類の圧倒的多数は罪なき善良な市民です。
罪悪深重という罪の意識は、私が何らかの行為をして、それを自己の良心をもって振り返って珂責(かしゃく)するというレベルのものを言っているのではありません。最も慈悲深く自己を殺して社会に尽くした人で、時の人から聖者と仰がれた人でも、この懺悔の涙を流さないではおれないのです。
それは人間的意識に基づくものではなく、阿弥陀如来によって凝視された人間実存の姿であります。私ひとりを救済せずばという阿弥陀如来の本願を信受するとき、如来から回向された意識が罪悪深重の凡夫であったという目覚めなのです。それは、如来からたまわつた目覚めであります。
罪の自覚
罪というのは、心に痛みを感じることです。肉体には各部に痛点があって、打撲や傷を負うと痛みを感じます。肉体的危険信号で、この痛みがあるために健康を保つことができるのです。もし、痛みをまったく感じなくなつたら屍体です。これは肉体上のことですが、心についても同様のことが言えないでしょうか。心に痛みを感じるのは、健康な精神の特徴です。心に痛み、すなわち罪の意識を感じないのは、心が麻痺しているか死んでいる証拠です。肉体的に健康で社会的にも活躍しながら、精神的には死んだような生を送っているとしたら、人生を生きたと言えないのではないでしょうか。
罪とは、真の人間への覚醒なのです。
罪を照らし出す光
また罪とは、人間の暗部であり恥部でもあります。したがって、無意識のうちにそれを隠蔽し、自らも眼をそらして、忘却の淵に沈めてしまうものです。しかし、そのような暗部の罪悪が私の意識の上に明らかに見えるようになるためには、その暗部を照らし出す光がなければなりません。暗黒のなかでは罪悪は見えないのです。
光とは、阿弥陀如来の本願のことです。本願の教えは光となって、私の底の底の根元に横たわっている罪悪深重の姿を照らし出し、この罪悪を知らしめてくださるのです。このようなはたらきを本願というのであり、それを信受するなかに、罪悪深重と阿弥陀如来に凝視された自己の姿を知らされるのです。そして、この罪悪深重の目覚めは、本願の救いへの尽きざる謝念と化すのです。
(出典 霊山勝海『やさしい真宗講座 ーみ教えに生きる-』104~110頁)
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